「そうし!」
 控え室に入った瞬間、勢いよくどんとぶつかってきた体温に、心臓が跳ねた。
「……一騎?」
 特典のサイン入りブロマイドだのショップに置いてもらう直筆ポップだの、締め切りの近い書き物がまったく終わっていないと、計画的に終わらせていた総士よりも半日ほど早くから事務所へ出てきたはずの一騎だった。
 もうずいぶん長い間カメラの前でしかふれていないあたたかいからだがぎゅうっと抱きついて、しなやかな黒髪を総士の首筋にすりつけている。
 今朝すこし億劫そうにしながら家を出たときには、いつもと変わらなかったはずだ。五年前のあの日から総士にふれることを恐れて、同居しているマンションでも必要最低限の会話しか交わさない、写真撮影のときに肩を組むことさえためらっていた一騎が、どうして、とつぜん。背中にしがみついた手のひらが熱い。
「よぉ、総士、おつかれさん」
 いやにバツが悪そうな顔で奥の給湯室からのそのそと姿を現した溝口を、じとりとにらむ。
「溝口さん、これは一体……」
「いやー、どうもな? 冷蔵庫に入ってたチューハイ、ジュースと間違えて飲んじまったみたいで」
 から、と溝口が振ってみせた空き缶はたしかに一見ジュースに見えるが、隅にはっきりと「お酒」の文字が踊っている。
 これを飲んだのか。一騎が。書き物の苦手な一騎のことだ、おおかた煮詰まってきたところで休憩がてら冷蔵庫を開けて、大して確認もせず飲んでしまったんだろう。
「……なぜ事務所の冷蔵庫にアルコールが入っているんですか」
 どうもチューハイ一本で酔っ払ってしまったらしい、まだむじゃきに首にしがみついている一騎にも、のんきにへらへら笑っている溝口にも、頭が痛い。事務所の中での偶発的な事故だったからなんとかことなきを得ているが、未成年アイドルが飲酒だなんて、万が一外部に知れたら。下手をすれば今後のアイドル生命に関わるスキャンダルにも発展しかねない。
 そうしー、そうしー、と何が楽しいのか総士の名前を連呼して、ほおをすりつけてにこにこ笑っている、なにも考えていないようなかわいい顔がにくたらしい。
 こんな一騎の笑顔は、ずいぶん久しぶりに見た。パートナーとして組むようになってからの一騎が見せるのは、いつも、おびえたようにこちらを伺う顔や、あいまいに目を伏せた顔ばかりだ。仕事でカメラの前に立つ瞬間には、これ以上の相方は存在しないと確信できるほど呼吸をあわせることができるのに、舞台から降りればまともに目も合わない。
 この傷のことをずっと気に病んでいる一騎の誤解を解かなければいけないことはわかっている。不意に合った視線を逸らされるたびに感じる鈍い痛みも、もうまっぴらだ。それでも慣れない新しい日々に忙殺されて、どうすれば一騎を安心させてやるのかもよくわからない。自分のぶきようさが嫌になる。
 はなれたくないとぐずつく一騎をやっとのことでソファに沈めると、腕を引かれて強引にとなりへ座らされ、小さな頭がひざの上へ我が物顔で乗ってくる。飼い主に甘える犬か猫のようだ。
「しかし一騎が酒に弱かったとはなあ。さっきまでいつもと同じだったから、てっきり紅音ちゃんに似てザルなんだと思ってたわ」
「溝口さん、どうするんですか、これ」
 完全にひとごとのような口ぶりでしみじみとうなずく溝口をにらむ。こうなってしまっては、ひざを占領された総士も仕事にならない。一騎はそれこそ飼い主のひざで喉を鳴らす猫のようにうっとりと目を細めて、大きく深呼吸しながら満足げにほほえんでいる。
「今日の予定は書きものだけだろ。酔いが覚めるまでしばらく頼むわ」
「ちょっと、どうして僕が……!」
 ひらひらと手を振って去っていく背中に思わず腰を上げかけて、きゅう、と腰にしがみつくぬくもりに毒気を抜かれた。そーし、と、ファンにはいくらも聞かせるくせに、ついぞ総士には出したこともないようなあまい声がささやく。
 飢えていた。長い間、自分にだけ与えられなかった温度を味わうチャンスに、ほだされてしまわないわけがなかった。


***


 なかなか気が乗らずに後回しにしていた書き物をいよいよ片付けろと言われて、朝早くからひとりで事務所に出ることになった。
 俺は字が汚いし、総士と違って何を書いたらファンの人によろこんでもらえるのかもよくわからないから、こういう仕事は苦手だ。たくさん溜めてる自覚はあるから、今日一日であの量を書かなきゃいけないことを考えると、自業自得だけどおっくうだ。
 だけど、総士とべつべつの入り時間になるのは、ほんの少し気が楽だった。同じ予定で動かなきゃいけない日は、総士と一緒に家を出る。一緒に住んでるからあたりまえだけど、そういう日は一日が気が遠くなるほど長く感じる。なかなか進まない時計を眺めながら、たしかに同じ家の中に感じる総士の気配に息を殺す必要もなくなる。
 うんうん唸りながら苦手な書き物に午前中いっぱいとりかかって、昼前になってやっと終わりが見えた。単純なサインならまだましなのに、たくさんコメントを書かなきゃいけないやつとか、ひとつひとつ内容を変えなきゃいけない分がけっこうあって、動かしていた手よりも頭が痛い。勝手に飲んでいいと言われてる冷蔵庫のジュースをもらって、ひと息つく。
「一騎ー、調子どうだ」
 事務所に出てきた俺に原稿の山を抱えさせ、とりあえず半分終わるまで出てくるなよ、と控え室に押し込んだ溝口さんが、ドアからひょいと顔を出した。
「お、案外進んでるじゃねえか。感心感心、……て、おいおい、お前、それ酒だぞ」
「え?」
 溝口さんが俺の手元を覗き込んで満足そうに頷き、握りしめたままだったジュースの缶を見て、めずらしくぎょっとした声を出す。つられて改めてまじまじと見れば、確かに隅には「お酒」の文字があった。どうしよう。見たことないジュースだとは思ってたけど、まさかお酒だなんて、全然気づかなかった。
「うわ、本当だ、どうしよう……ていうか、なんでここの冷蔵庫にお酒なんか入ってるんですか」
「私物だよーん。うわっ、一本飲んじまったのか。お前大丈夫か?」
「気持ち悪くなったりはしてないですけど……」
 大丈夫かと言われても、さっきまで気づいてすらなかったくらいだ。
 こんな仕事をしているから、お酒を飲んだなんてメディアの人に知られたらものすごく大変なことになるかもしれないのに、缶を取り上げた溝口さんは案外へらへらしている。
 総士にばれたら、また怒られるかな。怒ってくれるんだろうか。総士にも関係あることだから、さすがに怒るかな。
 総士に仕事のことで怒られるのは、嫌いじゃなかった。総士はまじめで努力家で、プロだから、仕事の話をしているときはほんとうに仕事のことしか考えてない。それに総士にきついまなざしでにらまれて怖い声を出されると、やっと身の丈にあった扱い方をされたような気がして、どこかほっとする。それよりも、総士が俺を見て笑ってほめてくれたときのほうが、ずっと心臓が苦しい。
「顔色ひとつ変わんねーな、やっぱり遺伝かねぇ」
 証拠隠滅、と宣言した溝口さんが、ぶつぶつ言いながら裏の給湯室へ缶を捨てに行く。
 そっか。ふつう、お酒飲んだら、酔っぱらうものなのか。いつもと違わないけど、これって、俺っていま酔っぱらってるのかな。
 酔っぱらうってどんな感じだろう。ふわふわして、気持ちよくなって、楽しくなって。父さんはいつもべろべろに酔っぱらうと、人が変わったみたいに母さんに抱きついて甘えている。酔っぱらうと、好きな人に抱きつきたくなるものなんだろうか。
 好きな人に、抱きついたり。俺にはぜったいできないことだ。仕事でさわるのなら、まだできる。ステージで夢中になっている間は、そこにあるのはただ総士の体温と感触だけで、握った手のなつかしさを心地よく感じることだってある。このまま離したくないと、歓声と熱と高揚感に浮かされて、名残惜しくいつまでも絡ませた指を解けない瞬間がある。だけど我に帰れば、そんなふうに思ってしまったことに、後になってものすごく打ちのめされる。
 デビューが決まって、円滑なコミュニケーションのためにって事務所の人の勧めで総士と一緒に暮らすことになっても、結局は避けるみたいに時間をずらして、仕事がなければ顔も見ない日もある。
 総士にさわるのがいやなんじゃない。総士のことを傷つけたくせに、いまさらなんでもなかったみたいに総士にさわって、総士にどう思われるかが、すごく、怖い。俺なんかがのうのうと総士にさわって、まるであのことを忘れたみたいに笑って、それを総士が一体どんな顔で見ているのか、知るのが怖い。
 だけど、もしかして、酔っぱらいって、そういうのが許されるんだろうか。だから大人は、次の日あんなにしんどくなるのがわかってるのに、何度も懲りずに飲むんだろうか。ほんの少しでも、なにかを忘れたくて。許されたくて。
 突然どきどきと心臓が早くなる。妙なこと考えるな、と思っても、頭が先走るのを止められない。ちらりと時計を見る。
 ……そろそろ、総士がやって来るころだった。


***


「真壁くん、けっこういける口だねー」
 真っ赤な顔で肩を組んできたプロデューサーさんの絡みを、へらっと笑って受け流す。掘りごたつに突っ込んだ足がぶつかるほど近い。前からスキンシップの多い人だとは思ってたけど、酔うと拍車がかかるらしい。
「実はもうこの歳で飲み慣れてたりして?」
「やだな、俺、成人したばっかりですよ」
 いままで未成年だから遠慮していたところを、せっかく真壁くんが成人したから、と誘ってもらったレギュラー番組の飲み会だったが、他の人にこっそり話を聞いた限りでは、どうも毎回こんな感じでプロデューサーさんのスキンシップが激しいらしい。この調子だと次からもなにかと理由をつけて断ったほうがよさそうだ。握られた手がなかなか離せない。総士が別のテーブルでよかった。
 誕生日を迎えて、家で父さんや母さんと飲んだり、先に成人していた甲洋と飲みにいったりはしたけど、こうして家族や友人以外との外での飲み会に参加するのははじめてだ。まわりに勧められるまま、ビールだの焼酎だのウイスキーだの試してみたけど、いまいち酒の旨さも楽しさもよくわからない。
 六年前、誰にも、総士にも言えない、はじめてアルコールを口にしたときのことを思い出す。溝口さんの言ったとおり、俺はわりと酒には強いほうの母さんに似たらしい。
「一騎」
「ああ」
 通路を隔てて別のテーブルに着いていた総士が人混みを縫うようにやってきて、肩を叩いた。腕時計を見る。たしかに、そろそろいい時間だった。
「すみません、せっかく誘っていただいたんですが、明日も早朝からロケが。この辺りでお先に失礼します」
 総士がいつもと同じ白い顔でそつなく言って、上着を手に立ち上がる。総士は誕生日がまだだから未成年だけど、今日ははじめて外で飲む俺が心配だからと着いてきてくれた。もちろん呂律もしっかりしている。酒は飲んでいないはずなのに、いつもより妙に怖い顔をしているのは気のせいだろうか。
 やたらとべたべたしてくるプロデューサーさんが大きい声で残念そうにしゃべるのを聞き流しながら、俺も立ち上がって上着をはおる。こういうのは総士にまかせておけばいい。また手を握られそうになって、さりげなく間に入った総士が遮ってくれた。
 身じたくを整えて靴を履いて振り返ると、いつの間にかずいぶん機嫌がよくなったプロデューサーさんに今度は総士が両手をぎゅっと握られていて、あわてて総士の手をひったくるようにして店を出た。

 大通りに出てすぐにつかまえたタクシーの中で、めずらしく総士のほうから手を握ってきた。
 ひんやりした温度にさっきまで総士の手を気安く握っていたプロデューサーさんの顔が思い浮かんで、無性にむかむかする。俺以外の感触がなくなりますように、と思いながらてのひらをあわせて、指を絡めるようにきゅっと握り返す。
「……お前、アルコール、強かったんだな」
「えっ? あ、あー、そうみたいだな」
 総士がつぶやいた言葉に、心臓がどきっと跳ねた。そういえば、そうだった。総士は俺が酒に弱いと思っている。十四のときに間違えてチューハイを飲んでしまった俺に総士はえらく腹を立てて、二度とこんな間違いはするな、たとえ成人しても僕が居ない場では絶対にアルコールを摂取するな、とすごいけんまくで怒ったんだった。
 六年前のうそがばれてしまったのかと、さっきまで平静だった鼓動がどんどん早くなる。
 ふと総士が笑って、絡んだ指があまくすりよせられる。
「あのときのように酔っていたら、あの場で皆の前で抱きしめても許してやったのに」
「……こんなところで、そんなこと言うなよ」
 いまさらここじゃ抱きしめられないだろ。赤くなったほおを隠すように、総士の肩に顔を埋める。
 総士があのときあんなに怒った理由もわかる今なら、帰るなり我が物顔でひざを占領したって、ゆるしてくれるのかな、と思った。

▼ (2018.10.3)