鏡に映った自分の顔がだらしなくゆるんでいる。カメラが回っている前で見せれば、あきれた総士に怒られそうな気の抜けた顔だ。巻かれ、編まれ、結われる自分の髪をよそに閉じられていた総士の目がふと開かれ、俺の方をちらっと見て、仕方ないな、と言うように笑った。
「アイロン、熱くないか?」
「ああ」
表に出る総士の髪型をきれいに整えるのは、もう長いこと俺の仕事だ。メイクさんの入る撮影やステージがある日でもヘアアレンジだけは俺にさせてもらうし、別現場のときや時間の都合で難しいときも、こうして自宅で総士の髪だけはやってから家を出る。
全体をゆるく巻いたあと、両耳の上の束をすこしとって、やわらかい裏編みにする。後ろの高い位置でまとめてかたちを整え、余った髪をふわふわのお団子にまとめれば、フォーマルだけど華やかになって、総士の雰囲気によく似合う。以前ハーフアップのアレンジを探していたときにネットで見つけた髪型だ。絶対に似合うはずだと思ってたけど、やっぱりよく似合う。
総士の髪は細く、やわらかい。昔はまっすぐでさらさらの髪だったけど、成長するにつれて髪質が変わったのか、今はゆるくくせのあるふわふわの髪をしていて、さわっているだけでも気持ちがいい。染めていないやさしい色もきれいで好きだ。長く伸ばしているわりに、総士自身がプロとして自分のパーツにまめに気を配っているのに加えて、俺もよく、総士にさわりたくなったときにはじっくり手入れをさせてもらうから、毛先までつやつやだ。
総士の髪型を任せてもらえるようになってから、思う通りにアレンジできるようになるまで、それなりに時間がかかった。はじめのうちはヘアアイロンの扱いに慣れなくて、何度かやけどしたりもした。だけど、ネットや雑誌や、凝った髪型の女の子を参考にして何度も練習させてもらう時間は俺にとってうれしいだけの時間だったし、こうしてそつなく、総士をますますきれいに整えられるのが俺だけの特権だと思うと、そういうちょっとした労力なんか、あってないようなものだ。
髪飾りは、淡いグリーンのリボンと悩んで、あたたかく透きとおった琥珀と繊細な金細工の花がかわいいバレッタに決めた。やっぱり今日は、いつもより特別なものを使いたい。
「今日はずいぶん凝るんだな」
「だって総士の晴れ舞台だろ。とっておき」
「記者会見だけだぞ」
鼻歌まじりにバレッタを留めて全体を整える俺に、いつもより長く頭をいじられている総士が目を閉じたまま、僕よりお前のほうがよほどうれしそうだ、と苦笑した。
最近ユニット揃っての撮影が続いていた中、今日は久しぶりにお互い別々の現場での仕事が入っている。俺は来月発売の雑誌のインタビュー後にソロラジオの公開収録。総士は、初主演舞台の発表記者会見だ。
総士は演技が好きだ。台本の合間を読み取るのが苦手でなんとなくの勘でやってしまう俺と違って、総士は設定や台詞から、その登場人物の人となりを細かく解釈して演じるのが楽しいと言う。
ドラマや映画にも積極的で、舞台にも挑戦したいとずっと漏らしていたが、左目の視力のことで他のキャストやスタッフに迷惑をかけるわけにはいかないからと、いままで生の舞台を避けてきた。総士の目のことをよくわかっている馴染みのスタッフや俺が側に控えている、たいていのアクシデントなら演出やセットリストの変更でなんとかできるコンサートと違って、ある程度のアドリブが許されるとはいえ、最終的には決まった台本通りの結末で終えなければならない舞台は、総士自身にとっても負担が大きかったようだ。
しかし今年に入ってから、界隈で評価の高い劇作家から熱烈なオファーがあった。フォロー体制も万全に整えるからと、かなり熱心に口説かれたらしい。
総士が左目の傷をとても大切にしてくれていることは知っている。もう罪悪感にうずくまって、その傷から目をそらすことはしないと決めた。だけど、結果として俺が奪った左目が原因で、総士が望みを叶えられない、その才能を発揮できないという事実は、長い間ずっと胸に重くのしかかっていた。
だから、総士の演技を認めて、総士が実力を発揮できる環境を整え、その演技を必要としてくれた人がいたことも、ずっとやりたいことを心に仕舞っていた総士が今回オファーを受けてくれたことも、俺にとってはほんとうに胸がいっぱいになるような、うれしいことだった。
そんな総士の初主演舞台だ。今日は記者会見だけとはいえ、誰もがはっとするような、総士のうつくしさを引き立てるような髪型にしたい。鏡を覗いて最後の確認をすれば、そこには文句なしに世界でいちばんきれいで、かっこいい、俺の大切なたったひとりのパートナーがいる。
「はい、できた」
「ああ。……ありがとう」
結局、最後まで途中経過を気にすることもなく、ぬくい風呂につかったときのような顔でただじっと目を閉じてされるがままだった総士が、あらためて出来上がった髪を鏡で簡単に確認している。
俺が髪をやるようになって、はじめのうちはひとつにまとめてくれとか、寒いから下ろしたままでいいとか、頭が痛くなるからあまりヘアピンは使うなとか、ある程度あれこれと指定はあったはずなのに、いつからか総士は、俺がやる髪型にも使われる髪飾りにも、なんの注文もつけなくなった。
総士はいつも、自分がどう見られているかをきちんと計算している。その日の仕事で求められるものによって腕時計も靴も、眼鏡ですら使い分ける総士が、髪については俺を信頼して、すべて手放しで任せてくれるようになったことを、実感するたびにじわじわとよろこびがからだじゅうに広がるような気がする。
今日は崩れないように高めの温度で巻いたから、帰ったらしっかり保湿して手入れしてやらないと。ヘアアイロンやワックスを仕舞いながら、公開収録の終了予定時刻を思い出す。ちょっと遅くなりそうだから、雑誌のほうが終わったら先にスーパーに寄っておこうか。そういえば今日の総士の記者会見は明日朝のワイドショーで報じられるらしいから、録画予約もしておきたい。
「一騎、今日の雑誌はスナップ撮影もあるんだったな」
そろそろ迎えの時間が近づいて、上着を羽織った総士が首をかしげる。
「ああ、そう聞いてるけど」
「お前も今日は上げたらどうだ。ずいぶん伸びてきただろう」
ひんやりした細い指が、肩ほどまで伸びた俺の髪をさらさらと梳く。くすぐったくてきもちいい。
今度やるドラマの関係で、ここ半年ほど伸ばしている髪もずいぶん長くなってきた。俺の髪は総士と違って硬くておもしろみのない黒だから、台所に立つときひとつにまとめるくらいで、仕事のときにいじるなんて考えたこともなかった。たしかに、人から見ればちょっとうっとおしいかもしれない。
「うーん、そうだな、……そうしようかな」
「あのバレッタを使うといい」
「いいのか? 総士」
「何がだ」
「……いや、なんでもない。うん、あれにするよ」
満足そうな顔でうなずいた総士が、もう出る、と言うので玄関先まで見送る。いってらっしゃいとほおにキスすると、まじめにうなずく顔がいつもより低い位置にあるのがかわいい。エレベーターに乗り込むのを手を振って見送って、鏡の前へ戻った。
「さてと」
仕舞ったヘアアイロンをもう一度出してくる。そろそろ俺も準備をしないと。総士の髪ばかり触ってきて、自分のをなんとかするのははじめてだ。長さが足りないからお団子にはできないけど、簡単にでも巻いて編めばそれなりに見えるだろう。
引き出しから、総士に言われたものを取り出す。
総士のきれいな髪に留めた今日のバレッタとそろいの、明け方の空みたいなうす青い透きとおった紫の石が使われた、銀細工の髪飾り。
雑貨店で最初に見つけたのはこっちのほうだった。総士の目のようなきれいな色に惹かれて、そこそこ値の張るバレッタを絶対に買うと言い張った俺に、となりで興味なさそうにしていた総士がめずらしく、今日つけていった琥珀のほうを手にとって、僕はこちらがいい、と言ったのだった。
なんでも似合うから特にこだわりがない、と言えば聞こえはいいものの、髪飾りに全く興味がない総士が自分からひとつを選ぶのははじめてだった。だから琥珀のほうを買うことはその時点で決定したものの、結局俺が紫のほうを諦められず、どちらも購入して、男のふたりぐらしだというのに、うちには長い間、同じ細工で色合いの違うバレッタがふたつ仕舞ってあった。
これを買ったときには自分が髪を伸ばすつもりもなかったし、いつかとっておきの場面で総士につけてもらうつもりだった。髪を伸ばしはじめてから、一緒につけられるな、と思ったことが一度もないとは言わないが、てっきり総士はそういうのをいやがると思っていた。
今日の記者会見は、総士がずっとやりたかったことへの第一歩だ。もちろんうれしいことだし、よろこんで送り出したい。
だけど、ここ最近なかった別々での仕事に、どうしてもほんのすこし感じてしまったさみしさ、心許なさを、同じように総士も抱いてくれていたのかもしれない。
そう思えば、鏡の中の見慣れない自分の姿も、なんとなく好きになれそうだった。
▼ 公録で今日は一騎髪上げてる!!かわいい!!となったオタクが翌朝のワイドショーで報道された記者会見での総士の髪型に卒倒するし、翌月発売された雑誌の一騎のスナップに映り込んだ髪飾りが総士のものとお揃いであることに気づき、時間差で卒倒する(2018.9.12)