「一騎!」
 地面についた両手の下で、細かな砂がざりざりと擦れる。
 覗きこんだ海では波間にせっけんのような泡が立って、コンクリートの桟橋に波が打ち付けるぱちゃぱちゃという音だけが響いていた。
 一騎は上がってこない。
 雲ひとつない空から照りつける太陽が、髪を上げたうなじを痛いほどじりじりと焼く。麦わら帽の下で蒸れた頭から、汗がだらだらと流れてゆく。それなのに、背筋はぞっと冷えて、半袖からむきだしの腕には鳥肌が立っていた。
 どうしよう。どうしよう。一刻も早くなんとかしなくちゃいけないのに、頭が真っ白になって、そんな意味のないことばかりしか考えられない。
 服を着たまま溺れてしまったときは。この下は、底が岩場でごつごつしていて、かなり深かったはずだ。一騎は島のだれよりも、もしかすると大人よりも泳ぎがうまい。だけど。僕があんな不注意さえしなければ。ああ。どうしよう。どうしよう。
 地面に落として溶けたアイスに蟻がむらがっている。靴下だけになったかたっぽの足が、硬い地面にこすれて痛い。
 だけど、そんなことはもうどうだってよかった。
 総士がもっと気をつけてさえいれば、一騎は海に飛び込んだりなんてしなかったのだ。


 その桟橋は、一騎とふたりだけのひみつの場所だった。
 みんなが泳いだり貝を獲ったりする浜辺からはうんと離れているし、釣りをするような波止場からもすこし外れている。人家からも離れたそこは、影はないが、海から強い風が吹きつけてけっこう涼しいのだ。
 海に面したコンクリートにふたり並んで腰かけて、よくアイスを食べた。向島からはずれて遮るもののない水平線をながめて、脚をぶらぶらさせて。お互いおこづかいはさほどたくさんはないから、ぱきんとふたつに割れるソーダの棒アイスをひとつ買って、はんぶんこすることがほとんどだった。
「はい、一騎」
 差し出したアイスを受け取って、さっそくうれしそうな一騎がしゃくっとかじりつく。割ったアイスのおおきいほうは、一騎にあげる。いつもそうだ。
 浜辺で見つけたすべすべの青い硝子だって、校庭の砂場で集めた龍の涙――細かく割れたきらきらの砂だ――だって、ふたりで食べなとみっつ余分にもらった小さなクッキーのあまりだって、ぜんぶ総士は、一騎にあげた。
 そうすると一騎は、ひまわりみたいににこにこっと笑って、「総士、ありがと!」とからだをはずませる。その顔が総士は大好きだった。
 一騎はちょっとだけぼうっとしているところがあるから、総士がしっかりしないといけないのだ。お父さんにも、一騎のおじさんにもよく言われていた。「総士、お前がしっかりするんだぞ」「総士くんはしっかりしているから、一騎をよくみてくれて安心だ」と。
 上半分がうまく割れなかったアイスを、総士も口にふくんだ。口のなかがつんと冷える。ほっぺたの奥がきゅんとする。おいしい。
 総士がちびちびとアイスをなめているあいだに、一騎は三口で食べ終わってしまったらしく、脚をぶらぶらと揺らしてひまそうに海面をのぞきこんでいる。これを食べたら、ふたりで砂浜まで行って、イカの貝殻を探す約束をしているのだ。
 あわてて溶けかけたアイスをかじる。頭がきーんとした。ぎゅっと目をつむってしまった拍子に、ぽたぽたと地面に染みを作っていたアイスが棒からはずれてぼとりと落ちる。
「あーあ」
 もったいない、と目をぱちぱちさせる一騎から顔をそらして、総士はわざと脚をぶらつかせた。きまりが悪い。ぶきような総士がドジをするのはいつものことで、一騎はそれをからかったりばかにしたりはしてこないが、ふだんからさんざんおにいさんぶっている身としては、そんな自分がなんだかはずかしい。
 かかとをかつかつコンクリートの壁にぶつける。もういいから、行こう、と言いかけたとき、きつく擦れた右足の靴が、ぽろりと足から抜けた。
「あっ……」
 ぱしゃん、と音を立ててしぶきが上がったみなもをぼうぜんとして見る。
 靴を落としたのだ、と気づいたのは、泡立った水面が静かになってからのことだった。
「どうしよう……」
 思わず泣きそうな声がこぼれる。こんな場所だ。落としてしまった靴など、どうしようもないことくらい総士にもわかっている。それでも未練がましい声をがまんできなかった。あの靴は、たった一度だけお父さんといっしょに立上さんのところへ買いに行って、総士に似合うものをお父さんが選んでくれた靴だったのだ。
 じわじわと目が熱くなる。鼻の奥がつんとして、ぎゅっとくちびるを噛みしめた。悪いのはドジな自分だ。しかたがないのだ。家まではなんとか歩いて帰って、お父さんにはすなおに謝らなければ。もしかしたらうんと叱られるかもしれないけれど、自業自得なのだ。
 だけど、お父さんが選んでくれた、靴だったのに。
 泣きそうになってうつむいている総士を、一騎はじっと見ていた。しばらく黙ったまま総士を見て、そしてとつぜん立ちあがると、ごそごそと靴を脱ぐ。
「一騎?」
 鼻をぐずぐずさせたまま見上げる総士に応えず、一騎はきれいなフォームで海へと飛び込んだ。
「一騎!」
 あわててコンクリートに両手をついて、海面を覗きこむ。大きな音を立てて泡立った海がゆっくりと元に戻っても、一騎は上がってこない。まるでなにごともなかったかのようにあたりはしんとして、波が桟橋に打ち付ける音と、山のほうから蝉の声だけが聴こえてくる。
 じわじわと涙がにじむ。どうしよう。僕のせいで。一騎。泣いている場合じゃない。だけど。一騎は泳ぎがうまい。だれか大人の人を呼んでこなくちゃ。僕が靴なんて落としたから。どうしよう、一騎が溺れてしまったら。どうしよう。
 ひくひくと喉がけいれんして、わんわん泣き出しそうになった総士を我に返らせたのは、場違いに明るい一騎の声だった。
「総士ーっ! あったぞ!」
 はっと涙をぬぐって下を覗きこむと、一騎はすいすいと立ち泳ぎをしながら顔を出して、こっちに手を振っている。桟橋の横にあるはしごをつたって登ってきた一騎は、まだ鼻をすすっている総士に、意気揚々と手のひらを差し出した。
 ちいさなそれに乗っているのは、総士の靴だった。
「ほら! 総士」
 ほめてもらえると思っているのか、一騎はほこらしげに胸をはっていた。総士がどんなに心配したかも知らないで。


 びしょびしょになって器屋へ帰った一騎は、案の定、いたくおじさんに叱られていた。
 誰か大人といっしょでないかぎり、子どもだけでは海に入らないようにきつく言われているのだ。無口だけれどいつもやさしいおじさんがあんなに怒ったところを、総士ははじめて見た。一歩まちがえれば死んでいたんだぞ、と叱る大きな声に、平然としている一騎よりも総士のほうが怖くなってぎゅうっと一騎の手をつかんだ。
 ためいきをついたおじさんになぜそんなことをしたんだと言われ、頭からつまさきまで全身海水で濡れた一騎はずぶぬれのまま、しれっと「暑かったから」とだけ言った。
 いつもそうだ。
 僕がしっかりしていなければ、よく一騎をみていなければと思うのに。一騎はなんだってひとりでできて、総士の手を引いてくれる。総士にはできないことも簡単にやってのけてしまう。そうして総士が困って立ちすくんでいると、いつだって助けてくれるのだ。
 家の鍵をどこかで失くしてしまったときも。ひとり山に登る途中で、転んでへとへとになってしゃがみこんだまま動けなくなってしまったときも。泊りにきた器屋で、家とちがってぎいぎい音がする真っ暗な夜に怖くなって、一人でトイレに行けなかったときも。
 一騎はいつも、総士のことを助けてくれる。
 おじさんにごめんなさいと一緒に謝って、総士はつないだままの手をぎゅうっと握った。


「総士?」
 おおきいほうのアイスを三口で食べ終わった一騎が、手に溶けかけたアイスを持ったまま、かじりもせずぼうっと物思いにふける総士を覗きこんだ。
 いいや、と返して、一騎に渡したそれよりもいくぶんか小さいアイスをしゃく、と口に含む。
 さわやかな冷たさがきんと頭の奥を苛むと、あのとき、一騎の手をぎゅっと握りながら強く感じた気持ちのことを、総士は何度でも思い出すのだ。
 一騎のことが大好きだ、と思ったそのときを。

▼ 総士は一騎のことを「一騎はなんでもできてすごいなあ」と思っていたし、一騎は総士のことを「総士はなんでも知っててすごいなあ」と思っていた。まえから書きたかった話とダブルソーダはんぶんこショックが魔合体しました(2020.8.23)