青く清潔な柑橘の香りが広がった。
 よく磨かれたグラスにすきとおった氷がカラリと音を立てる。そこへ旬のはじめにマスターてずから仕込んだやわらかな色あいのシロップとソーダ水を注ぎ、そっとマドラーでひと回し。ストローを差し、最後にきれいな薄い輪切りにした檸檬を添えれば、喫茶楽園特製レモネードのできあがりだ。
 ドリンクのたぐいは基本的にホールを担当する真矢や暉が用意していることが多いが、きょうのように店内が落ち着いているタイミングには雇われマスターみずから手を出すこともある。しんと冷える冬も終わりに近づいた、まだ若い春。マフラーのいらない日がすこしずつ増えてきたちかごろ、冬のあいだはホットレモネードに押されて控えめだったきんと冷たいレモネードの注文が、増えてきたように感じる。
 暉のオーダーを受けて、一騎の白く器用な指先が用意のために手早く働く。強めの暖房であたためられた店内では、たしかに強めの炭酸がきっとうまく感じるだろう。そっとかたちよく檸檬を添えたつめの先で、はしゃぐこどものようなちいさな泡がしゅわしゅわと跳ねる。胸の奥がすうっと通るような、すがすがしい檸檬の香りがした。
 総士がしずかに、しかしあまりにじっとその手元を見つめていたからか、用意を終えた一騎がおかえしのようにとっくりとこちらをみつめかえしてくる。
「なんだ」
 口を開いて視線でうながせば、それはこっちのせりふだろ、とでも言いたげに、一騎はひょいと肩をすくめた。
「なんだよ?」
 あどけない仕草で傾げた首元で、ひとつにまとめたつややかな黒髪が揺れる。
 ずいぶん髪が伸びた。
 もうほとんど記憶の奥にある、それでもかがやきを失わないままのいつかの日々。多忙な公蔵から総士を預かった史彦に連れられて、かつては春日井夫妻が営んでいたこの楽園へ、一騎と三人で夕食として訪れたことも少なくなかった。そんな日は決まって、店の片隅でひとり味気なく食事をとっていた甲洋も交え、普段よりもすこしだけ豪華なメニューを頼んだものだ。
 食事に合わせてドリンクも。史彦はさすがに子どもの手前コーヒーを。砂糖とミルクなしでは飲めもしないくせに、公蔵に憧れる総士もコーヒーを。そして一騎がいつも決まって頼むのが、このよく冷えたレモネードだった。もちろん、今こうして一騎が作るものとはまったく違っている。添えられた檸檬はくし切りだったし、使っているグラスも別だった。
 それでもかつてちいさな幼い両手でつかんでいたグラスを、いまでは一騎がマスターとしててずから用意しているのだ。
 妙に感慨深くなってカップのコーヒーを飲み干した総士の前に、さきほど目にしたのと寸分変わらないグラスがそっと置かれた。
「なんだ?」
 レモネードなど頼んだつもりはない。今度こそ疑問形を込めて視線をやった総士に、一騎がやけに機嫌よく笑う。
「俺のおごり。まだ休憩、大丈夫だろ?」
 あんまりじっと見てたから。総士、炭酸苦手なくせに。
 さわやかな果実のようにあかるいほほえみに、総士は苦笑してグラスに口をつけた。いつもコーヒーを一杯飲み終わると研究室に帰ろうとする総士を、なんとか時間いっぱいまでここに引き止めるためのあどけない手だ。
 こくりと燕下した喉を、ほおをあまく噛むような青々しくほろにがい酸味と、総士にはすこし強すぎる刺激がすべりおちていった。

▼ 文字書きワードパレットより「視線」「跳ねる」「檸檬」(2020.4.9)