「たとえばの話です」
 暑い日だった。
 もう夏休みも終わりだというのに、まだ蝉の声は蜩と交代するのを拒否しているかのように降り注ぎつづけていた。わざわざこんな日に呼び出さなくても、と思いつつ、携帯と財布だけを持って指定された公園へと向かった俺を待っていたのは、いつもと変わらないはずの古泉の、ひさしぶりに見る、あの胡散臭い笑顔だった。
「たとえば」
「ある日突然お前は選ばれたんだと言われるんです。世界を守るための、小さな少女のための、駒に選ばれたのだと」
 日陰に置いてあったベンチへ二人で腰掛けて、しばらく他愛もない世間話をしたあと、どこか遠くを見るような目をして唐突に古泉は話始めた。
「彼女は人とすこしばかり違っているだけのごく普通の少女で、だから普通を嫌っていた。普通でないものを望んだ。その「普通でないもの」に自分がなったのだと、ある日突然理解してしまうんです」  だからなにを言いたいのかわからない。怪訝な目で見ると、ごめんなさい、でも聞いてください、と申し訳なさそうな笑顔で謝られて、仕方なく溜息をついて続きを促す。古泉が自分の意見を押し通すなんて滅多にあることではない。俺は古泉におおよその欲求とはまるで無関係な人間であるかのような印象を抱いていた。それがハルヒが望んだ「古泉一樹」のイメージだから、だから古泉は敢えてそんなキャラクターを演じているのだと知ってはいても、どうしてもそんな印象をぬぐうことができないままでいた。
 めずらしい古泉からの「お願い」を、すこしでも叶えてやりたい、と思ったのかもしれない。

「たったひとりの少女になにもかも奪われたんです。いえ、奪われた、と言えばすこし語弊があるかもしれません。むしろ彼女は普通でない力を与えたのですから、その与えられた力が原因で、自分からそれまでのなにもかもを手放した、と言った方がいいでしょう。それは彼女の所為ではないし、誰の所為でもありません。ただの偶然です。けれど幼かった僕は彼女の所為だと思ってしまった」
「彼女とはじめて会ったときにも、彼女たちや「彼」とはじめて会ったときにも、そんな思いを捨てきれないままで、」
「――けれど彼女たちはやさしくて、あたたかで、だから」

「そのうちに、彼女たちを、彼を、はじめて本心から大切だと思えるようになったんです。彼をおもうだけで理不尽な憎しみは捨てられた。わらうことだって造作もなかった。彼を守っているのだとおもえば、たたかうことだって、恐ろしくはなかった。でも」
「彼は彼女に愛されていました」

「くるしかった。触れてはいけないのに触れてしまいたくて、それが罪なのだと知っていても犯してしまいたくて、――僕は彼女のために生きているから、彼女が彼を望むのなら僕がそこに入り込む隙間なんてあるはずがない」
「もしかしたら彼ではなくて彼女を愛したかったのかもしれない。憎しみのような、嫉妬のような、よくわからないそれは羨望だったのかもしれない。それでも僕がたしかに愛していると思ったのは彼で、だから彼女が彼を愛するなら、いっそのこと消えてしまいたいと思ったのに」

「彼に会えなくなると思うと、こわくて、」

「ずっと消えてしまいたいとおもっていたくせに、いざそうなれば必死で逃げ道ばかり探して、挙句ぜんぶ彼女の所為にして、こんな、きたない、」
「だけど彼を諦めることもできなくて、」

「――彼はとても優しい人だったから」
「僕が彼女を勝手な理由に仕立てあげるのも、消えたくないとおもってしまうことも、ぜんぶ許してくれる人でした。そのやさしさに甘えていたのかもしれない。ただ僕を肯定してくれる人が欲しかっただけなのかもしれない。それでもすきだったのもほんとうなんです」

「たとえ彼女を神様にまつりあげたのが彼なのだとしても」


「…どういう意味だ」
 口の中がからからに乾いていた。理解したくなかった。させてほしくなかった。
「そのままの意味ですよ。…いいえ、たとえ話ですと言ったでしょう」
 蝉がうるさい。ベンチは日陰にあるから日向よりもずっと涼しいはずなのに、それでも汗が止まらなかった。
「彼は傍観者でありたいと願った。誰か他の、もっと傍若無人で、だけど誰よりも常識的な誰かが引き起こすことに、しかたなく巻き込まれる一般人でありたがっていた」
「…そいつの願いがいったいなにに関係ある」
「わかりませんか」
「わかりたくもない」
 じっと足元を見つめていた視線をどうしても上げられない。ぱたり、汗が流れ落ちて地面に染みをつくる。古泉がどんな顔をしているのか知りたくなかった。古泉がなにを見ているのか知りたくなかった。
「彼はあくまでも一般人であろうとした。だから一般人とはあまりにもかけ離れているそれを、彼女に譲ってしまったんです」
「―――ハルヒは悪くない」
「ええもちろん、そしてあなたも悪くありません」
 誰も悪くなどない、たしかに古泉はそう言ったのに、それを素直に肯定することができない。ぎゅうと握り締めた掌が汗で滑って気持ちが悪かった。聞きたくない。聞かせてほしくない。いままでのなにも知らずに一般人ぶっていた自分にどうしようもない嫌悪感を抱く。それでも頭から流れ出してくるのは言い訳じみた言葉ばかりで、それらを生み出す頭ごといますぐこの手で消してしまいたいと思った。自己嫌悪と理不尽な怒りのなかで蝉と古泉の声だけがうるさく付きまとう。
「ほんとうの神様はもうまったく力を持たないただの一般人です。ましてや僕がどんな状況にあったかなんて、彼にはなんの関係もないことだ。彼を責めるのは間違っている」
 古泉が立ちあがる。
「それでも僕は、だからあなたがすきだったんです」

 どんな顔でその台詞を言ったのだろうか。俺が眺めていたのは地面の染みと自分の古びたスニーカーだけで、それをたしかめることはとうとうできなかった。古泉の気配がなくなって、公園にただ一人残されて、顔を上げることもできないまま途方に暮れている。
 もう俺にはなにを言うこともゆるされないのだとわかっていた。それはあまねく言い訳にしかなりえず、相手を傷つけるだけのにぶい刃にしかならないのだ。傷つくのは俺自身だと言ってもいいし、それならば自分からなにかをつむぐのはとんでもなく馬鹿なことのように思えた。誰かから話しかけられればいつものようになにか答えただろう、明日もし、またハルヒが召集をかけたとしても笑っていられたかもしれない。けれどいちど芽生えてしまった罪悪感のようなそれも、けっしてなくなりはしない。
 もちろん俺がこうやってどうしようもない感情にしずんでしまうことなど古泉は知っていただろう。知っていて告げたのだ。そうして自分も相手も傷つけながら一生この自己嫌悪のなかで都合よく生きつづければいいと、そう思いながら。

 憎めばいいと思った。ハルヒに抱いたそれよりも強く嫌ってくれればいいと思った。だって俺は、俺だってほんとうはきっと古泉のことを好きだったのだから。それを恋と呼べばいいのか愛と呼べばいいのか、そんなことはわからないけれど、たしかに好きだったはずなのだから。
 だから憎んでほしかった。好意と嫌悪はむしろよく似ていて、もう愛してはもらえないのなら憎んでもらうしかない。あいつがハルヒに抱いていた、あれ以上の執着が欲しかった。今覚えば、以前よく覚えていた苛立ちもそれからくる嫉妬だったのかもしれない。

 (おまえはとんだ嘘つきだ。誰も悪くない、なんてこれっぽっちも思っていないくせに。)俺だって誰が悪いかなんてことは理解している。古泉があんなことを言ったのも仕方のないことだと思うし、だからこそ、おそらくあいつのなかで渦巻いているだろう尖った針のような下手をすれば自分すら傷つけてしまう感情を隠されることに腹が立つ。そんな透けて見えるくらいの感情ならいっそ隠さなくたって良いのに、
(だけどこのくるしいのかかなしいのか泣きたいのか叫びたいのか、それすら判断できないようなにごった感情だけは最後にどうにかしてからころしてほしかったよ。)