たとえば人間の目が見たいものしか写さなかったら。人間の耳が心地良い音しか拾わなかったら。そうでなくても頭(と言うより得た情報を認識し取捨選択する脳)がそれらを拒否する可能性だってある。だからつまり僕たちは己の理想と都合の良い情報で作られた妄想のなかで生きているのではないか、と、時々僕は不安になることがある。
そんな世界では会話など存在しない。会話どころか、触れ合っているのかどうかさえ定かではないのだ。会話すら不確かな世界で、僕は川底でごろごろと転がされる石のかけらのようにたゆっているのだろう。きっとまだ一人きりのまま。
だから、微笑み楽しそうにはしゃぐ彼女たちやそんな彼女たちに(彼いわく)満更でもないような様子で手を引かれる彼女やその風景をすべて受け入れてしまえそうな顔で見つめている彼を認識するたび、僕が彼らとの間に、水族館でよく見るような厚いガラスの壁のようなものを想像してしまうのも仕様がないことなのだ。
その壁は透明で、質量など微塵も感じさせずにそこに存在している。僕一人の力では、彼らが彼らの持つ力のすべてを協力させたとしもけっして壊れはしないだろうガラス製の壁は、けれど古びた校舎の窓にはめられた窓ガラスほどの厚さしか持っていないようなそ知らぬ顔で、存在している。
そしてその壁の存在を認識しなおすと同時に僕はやはり彼らとは違う人間なのだ、ということも認識しなおされる。ここで言う「違う」というのは人種や性格や嗜好が違うという意味ではなく、ましてやそれぞれが違う意識を抱いて個人という不確定な存在を形成しているのだという哲学的な意味でもなく、ほんとうに、彼らと僕はまったく違っているのだ、と淡々と思うのだ。もちろんそれは僕が彼らを思考の浅い人間だと見下しての結論などではない。
違う存在はまじわることはない。水槽の中の魚とそれを観察する人間のように(もっともこの場合観察しているのは魚の立場にある僕であると言えるので、魚もまた水槽の向こう側から自分たちの世界を覗きこむ人間たちを観察しているのかもしれない)言葉を交わすことも触れ合うこともそもそも存在を認識しているのかどうかすらあやしいところである。その証拠に彼らはきっと僕の(僕が顔面の筋肉を酷使して作るものではない)笑顔を見たことがないだろうから。
そう思うと僕はいつもすこしだけ寂しくなる。悲しくなることはない。悲しがったとしても僕が彼らと違っていることに変わりはなく、また変わるわけでもなく、そんな無意味なことは思ったりしないのだ。けれど違っているという事実に、まじわることはないという確定に、ほんのすこし寂しさを覚えることがある。 かと言って僕が彼に言ったことも嘘ではない。実際本当に愉悦を感じたことだって、偶にだけれど確かに何度かあったのだ。ただその回数が壁を認識する回数よりも圧倒的に少なかったというだけで。ただ僕が、常に周りの視線を意識しつづけているからそれと同時に条件反射のように顔が笑顔の形をつくってしまって顔面の筋肉を意識しないということができない、というだけで。
とは言ったものの僕に朝比奈みくるや長門有希や涼宮ハルヒや、ましてや彼が世界をどのように認識してどのような世界のなかで生きているのかを理解することなんてどうしたって不可能で、だからそれも僕の感覚と感情と偏見に左右される勝手な妄想なのかもしれない。もしかしたら朝比奈みくるは微笑みながら世界を呪っているのかもしれず長門有希は(彼の洞察力を否定するわけではないが)本当になんの感情も感傷も持っておらず、そして涼宮ハルヒが世界中のなにもかもにあふれる愛情を抱いていたとしても僕にそれを知る術はないのだ。彼が僕と似たような感情を知っている可能性もないわけではなく、むしろ最近の僕にはそれを望みさえしているような兆候が見られる。
(だけど、ああ、)
(駄目だ)
世界がぐるぐる回っている。本当に世界が回るはずなどないのだからそれは単なる僕の想像だ。たとえもし世界が回ることのできる存在だったとしてもこの場合回るのは世界ではなく僕であるべきである。だってそんなに簡単に回ってしまうものでは、自分の意思で選んだという理由をつけてまで僕が守っているものが一瞬で価値のないものになってしまう。
(くるしい)
身体が精一杯体調不良を訴えていても睡眠も栄養も足りていなくても、人間はどうでも良いことをだらだらと考えることができるらしい。そんな発見こそどうでも良いものだと言えるのだけれど、生憎とそこへ行きつく前に僕の思考は顔を覗きこんだ彼によって霧散させられてしまった。
「大丈夫か、古泉。顔真っ青だぞ」
「だい、じょうぶです」
「大丈夫じゃないな」
たった今の彼の発言によって先ほどの問いかけはまったく意味を成さない無意味なものに成り下がってしまったな、と思った。
彼はぎゅっと眉間に皺を寄せて僕の顔をにらみ、(その状態を維持するのもけっこうな疲労を伴うだろうに)顔の中心からすこし上にずれたところへ顔面のパーツを集合させようとしているかのような表情のまま前へ向き直った。ともすればこれ以上なく機嫌が低空飛行しているかのようにとられるその表情は彼が時たま見せるものだ(もっともそれが僕へ向けられることは滅多に、というか今まで一度もなかったけれど)。彼女たち(とりわけ彼が深く入れ込んでいるTFEI端末)がなにか危険なこと、そうでなくても違和感を抱かせるものに関わろうとしているときなどによく浮かべるそれは、自分の感情をそのまま表情であらわすことをあまり得意としていない彼がとる「俺はおまえのことを気にかけているんだぞ」というポーズのあらわれなのだということを僕は知っている。
ということは、だから彼は僕を心配してくれているのだろうか、となんとも傲慢で贅沢とも言えることをぼんやり想像し、僕はいつもそうするように笑って彼に否定を投げかける。
「大丈夫ですよ」
「古泉」
「だいじょうぶ、」
もちろん嘘である。最近ほとんど睡眠をとっておらず食事もぞんざいに済ましていたのだからそろそろ身体も限界なはずだ。ここ数年で知ったのだが僕の精神というのは結構厄介なもので、身体が疲労と空腹を訴えたとしても一度したくないと思ったらどうしても眠る気にならないし食欲もわかないようにできているらしい。一年ほど前には便利に思ったけれど(なにしろ彼女の不機嫌は僕の体調などとはまったく無関係なのだから)、彼女の精神が安定しつつある今では彼も彼女があの忌々しい空間をつくりだす回数が減っていることを知っていて、だから僕が僕の存在意義である空間とは無関係なところで疲弊していれば不信感を抱くだろう。そんなことになるのは面倒だった。
「……血の気のない顔して、明らかに無理して笑ってますみたいな雰囲気をにじませてるやつを、はいそうですかと放っておけるような冷血漢に見えるのか、俺が」
「、」
一瞬彼の言った台詞の意味を理解できなくて言葉につまる。彼が僕を心配してくれている(多分)というシチュエーションからして理解できないのだが、もともと彼は人を放っておけない優しい人間であるからそれも仕方のないことなのだろう。
だけど、無理して笑っている、だなんて。
「…いえ、そんなことはありませんが」
「なら正直に言え。無理して平気なフリなんかするな」
「……、」
酷い人だ。
「…すこし、つかれていまして」
「ハルヒ関連でか」
「…いいえ……」
彼は敏(さと)いから気づいているのかもしれない。それとも気づいていないのかもしれない。どちらにせよ酷い人だ、と思った。
「ごく普通の高校生が経験するような睡眠不足ですよ。ここ最近、学業のレベルも上がってきましたから」
無理やりに笑顔をつくって(けれど今度はけっして彼にそれと気取られないように)また微笑みかける。
僕と彼らの間をさえぎる壁に彼が気づいていないはずがなかった。ただでさえ人の感情に敏感な(残念ながら良い感情にはわざとかと思うくらい鈍いのだけれど)彼が、僕がつくりあげたと言っても良い不のカタマリのそれに気づくのはとても簡単なことだ。
その壁に気づいていてさらに僕がそれを知られたくないことにも気づいていて、だからなにも言わないのか、それともただ僕にそれほどの興味がないだけなのか、そんなことはどちらでもかまわない。前者だとすればその心遣いはとてもありがたいし、後者だとしてもその状況は僕にとって都合のいいものだ。
だけど、だからこそどうしてそんなことを言うのかわからなかった。今までどおり見なかったフリをして僕に構わないでいてほしかったのに。陳腐な親切心だとか同情だとか、そんなものはべつに欲しくなかったのに。そんなものがあっても壁は消えてくれなくて、僕の勝手な孤独感も閉塞感もなくならなくて、だからなんの意味もないというのに。
(でも、)
なによりわからないのは僕自身だ。そんな意味のないものを、いらないものを、中途半端に与えられて泣きそうになっているだなんて。
(ずるい)
彼もきっと知っているのだ。僕がこんな始末の悪い自分でもその種類や大きさを理解できていない感情を抱いていることや、その感情がもしかすると僕の知覚している壁なんかよりもずっと僕と彼を隔てているのかもしれないことや、それに押し潰されそうになって、だから必死でもがいて結局肋骨が軋んで窒息しかけていることを。知っていてそんなことを言うのだ。だから、ずるい。
そんなことを言われたら僕の弱い精神は簡単に彼に依存してしまって、きっともう二度とひとりでは立ち上がれなくなってしまうだろうことを、なにもかも囚われたままになってしまうだろうことを、みっともなくすがりついて泣きそうになってしまうだろうことを、一番よく知っているのはあなたなのに。ぐらり、視界がゆれた。
(きもちわるい、)
(せかい、が、まわる)
青、緑、白、黒、中途半端な色が視界を横切る。混ざる。混沌。
世界はつめたい色でできているのだ、まるで水族館のように。だから彼が僕に手を伸ばすなどありえない。分厚いガラスの壁で仕切られているのだから。窓ガラスとは違って、(ああでも簡単に割れてしまいそうな)、ちがう、それは幻覚だ。絶対に割れたりはしない。ぜったい、に。
「 」
「、」
彼の唇が動く。こ、…こ、い、ず、み。こいずみ? そうだ僕の名前だ、だけど彼が僕の名前を呼んでいるはずなのに音がきこえない。彼の声が、きこえない。(もったいない)! もったいない、せっかく彼が呼んでくれているのに、ああ、でもどうして…どうしてそんなことを考える? もったいない? そんなわけない。だって彼はいつでも、(よんでくれた? 僕の名前を? いつ?)、いつだっけ。いつ彼は…、…そういえばさっきよんでくれたばかりじゃなかったか?
(だめ、だ)
本格的になにがなんだかわからなくなってきた、全然大丈夫なんかじゃない。
前が見えなかった。前も横も後ろも、なにもかもが不可解な色をおびてくるくるまわっている。あつい。でもさむい。汗がとまらなくって、けれど喉はからからに乾いている。音が(彼の声が、)きこえない。
彼が僕を受け止めようとしたりしなければいいのだけれど、と思いながら僕は身体の力を抜いた。