古泉、起きてるか。いつもよりすこしおさえた声で問えば、枕ひとつぶんくらいの距離をあけてまどろんでいた古泉はとろとろと目を開けた。
「悪い、起こすつもりはなかったんだが」
「いいえ、おきていましたから」
 眠いのだろう、ゆっくりとした舌足らずな口調で言って古泉は笑った。
 古泉がきまってこの時間(つまり高校生の恋人同士にあるふたりが週末前に互いの家に泊まったりして行うある意味とても健全な行為を終えたあとの時間)に浮かべる笑顔は、いつもの本心の読めない(俺には読めるのだが)撮影スタジオのショーウィンドウなんかに飾ってありそうな完璧なものとはいくらか違う。へにゃり、というか、ふにゃり、というか、ああもういっそのことふわりというような擬音語でもつきそうな無垢な無邪気な笑顔で、いくぶんか幼い印象を受けるのだ。
 こういうときの古泉は、いやいつもそうであるのだが、さっきまで瞳に欲の色をうつして、先ほどは微妙にオブラートにつつんだがつまりはそういうことだ、いわゆる思春期真っ盛りな男子高校生にありがちないかがわしいこと、を、していた古泉一樹と同一人物とは思えなくて、なんというか、かわいい。
 男役――つまりは主導権を握る立場にありながらも、溜まっていくどうしようもない熱だとか、敏感になった身体に悪戯心をくすぐられた俺がたまにあたえる刺激だとか、そういうものに翻弄されていっぱいいっぱいになりながらびくびく震えている古泉ももちろんかわいいのだが、…どういえばいいのだろうか、やっぱりそういう扇情的なかわいさとはまた違ったかわいさがある。普段のこいつもかわいいけど。

 古泉の家で金曜の夜から日曜の夜までまるまる二日過ごしたりするのが、習慣とまではいかないまでも、なにもこれがはじめてなわけではなかった。
 うちには両親がいるし、なによりこんなところを妹に見られたりでもしたらハルヒでなくても世界崩壊ものだ。その点古泉はひとり暮らしだから妙な心配も気遣いも必要なく、さらに言えばインスタントやレトルトばかりで栄養のかたよりがちな古泉の食生活を正すこと、そして顔に似合わない意外とおおざっぱな性格によってちょっと大変な状態になっている部屋や洗濯物を片付けることを、いつかだったかうちに来た古泉を一目みて気に入ってしまったらしい母親に命じられていたため、無断外泊とかでもないのである。ここのところ二週間に一度くらいのペースで泊まりに来ているのではないだろうか。果たしてその成果なのかそれともただの欲目なのか、はじめて訪れたときには俺がハルヒだったら足を踏みいれた瞬間世界を改変しそうなかんじだった部屋も(足の踏み場もない、という言葉が本当に適用される状況があるなんてはじめて知った)、最近はずいぶんとましな様子を見せている。古泉も見た目や味はともかく、簡単な料理は一応二三覚えたりしたし、以前にくらべれば考えてられないような進歩といえるだろう。

 古泉の家のものはなにもかも上等だ。だけど、つめたい。力の抜けた笑顔を見ながらなんとなくそう思った。
 引っ越すにあたってマンションも家具も日用品もすべて機関に用意してもらったと言っていたから、たしかに想像していたよりよくしてもらっているのだろうとは思う。この部屋だって長門のところとまではいかないものの、きれいかきたないかと訊かれれば、結構きれいの部類に入るだろうし、高級マンションでもなくオートロックもついていないが、高校生がひとりで暮らすにしては充分すぎるくらいの場所だ。駅からもコンビニからも近くて便利だしな。
 だけどそれでも、やっぱりつめたい。それは生活感がないというわけではなかった。むしろ物であふれかえっていたのだから、そういう意味ではものすごく生活感あふれる部屋だったのだろう。それでも乱雑に放り出されたなにもかもに、生活そのものに、どこかよそよそしさを感じたのだ。つめたさを感じたのだ。
 まっさらに洗って皺ひとつないように整えた布団も毛布もシーツも、さからえない熱に浮かされてしまえばすぐにぐしゃぐしゃになって無意味だった。そんな未(いま)だに熱を孕んでいるはずの(孕んでいなければならない)布のかたまりにさえ、痺れるようなつめたさを感じて嫌になる。
 たとえなにもかもがつめたくても、今だけはあたたかくてはならないのに。
 ふと目に入った古泉の白い肩が小さく震えていて、たまらなくなった。

「もっとこっち来いよ。寒いだろ」
 どうせ寒くたって素直にそう言ったりはしないのだろうけれど。だからといってこのまま放っておけば、たぶん端に寄りすぎて布団からはみ出してしまっているだろう古泉が風邪をひくことはなによりも明らかだった。
 夏がはじまったころから待ち望んでいた秋がそろそろ足早に去ろうとしている。そうでなくても、ただでさえこの部屋はつめたいというに、もうすぐ俺の嫌いな季節もやってきて、そのうち吐く息すら白くそめられてしまうのだろう。そんな季節にこんな部屋で、裸でやはりつめたい布団にもぐりこむのはすこし辛い。
「いえ、大丈夫ですよ」
 やんわり首を振った古泉をいささか強引に引きよせる。
「いいから来い、おまえは大丈夫でも俺が寒いんだよ。つーかここおまえの家だろ」
 むりやり抱き締めた身体は想像通りつめたくて、本当は寒かったくせにと思わず眉を寄せる。
 やはり毛布は足りていなかったようで、背中も足もびっくりするくらいにつめたかった。いつだか古泉は自分は末端冷え症なのだと言っていたが、そんなこいつが冷房の効いた夏の部屋や手袋を忘れた冬の待ち合わせ場所で手足を冷やすよりも、よっぽど。
「おまえ、つめたいな」
「あなたがあたたかいんですよ。寒いなら離れた方が」
「べつにこのままでいい」
 かすかに見せた抵抗らしきものは無視した。そのまま抱き締めつづければ俺の体温が古泉に移って、古泉のつめたい身体もあたたかくなるんじゃないだろうかと思った。そう期待した。
 実際そうなるまでこの態勢を維持するなんて無理なんだろうけどな。俺は暗い思考を打ち切って、なめらかな肌の感触にふたたび熱を持ちはじめた欲を持て余しながら、古泉にばれたときにはどうやってうまく丸め込もうかとそれだけを考えることに専念することにした。