あ、キスしたい、と思った。
 白い頬に、しなやかな指先に、あまくやわらかそうな赤い唇に口付けたいと思った。
(どうかしてる)
 そんな感情を抱いた相手が朝比奈さんなら言うまでもなく正常だし、長門やハルヒでも、まあまだ正常の範囲内にいると言える。そういう血迷った行動を起こしてしまうことだってあるだろう。たぶん。
 けれどたった今俺がキスしたいという浅ましい欲求を抱いた相手は朝比奈さんでも長門でもハルヒでもなく、俺の真向かいでにこにこ笑いながら、オセロ盤の上で自分の色である黒い石を自らの手で大量虐殺へと追い込んでいる古泉なのである。なぜこいつはこうも先を考えない場所にばかり石を置くのだろうか。わざとやっているとしか思えないそれは、だがこの間指摘したらまったく気づいていなかった顔できょとんとしたので手を抜いているわけではないのだろう。
(キスしたい)
 それだけでいいのか、と、どこかの部分がいじわるくささやきかける。
(それだけ? ちがう)
 結論から言えば俺と古泉は一般的には恋人と呼ばれる関係にあるわけで、だから素直にキスがしたいと言えばあいつは驚きながらも嬉しそうに照れながら笑って受け入れるのかもしれない。けれど違う。今俺が欲しいのは、そんな、今まで何度も与えられたような、与えてきたようなやさしい確かめるような口付けじゃなくって。
(ぜんぶほしい)
 白い頬も(なめらかで透明なそこは優しくなぞればすぐに赤くなる)しなやかな指先も(同じ男として信じられないくらいきれいな指は案外不器用だ)赤い唇も(すこしついばんでやればそれが簡単に色づくことを俺は知っている)、その奥にある舌も大きめな目も敏感な耳もそれ以外も、ぜんぶ。
(欲情、してる)
 こんなに簡単に、唐突に、俺は古泉のなにもかもに抑えきれない欲を抱いている。そんなことを知ればあいつはどんな風に驚くだろうか。目を見開くか、びくりと震えるか、頬を赤く染めて少女みたいにうつむくか。
 ああ、いっそ笑って受け入れてくれるのかもしれない。

「じゃあ鍵、お願いね!」
 「この間気づいたんだけど、みくるちゃんだけじゃなく有希も世間のニーズに応えてみるべきじゃない?」とわけのわからないことを口走りつつ、すっかり定番と化してしまったメイド姿の朝比奈さんと朝比奈さんのメイド服とお揃いな(ただし色違いの)メイド服を淡々と纏った長門をはべらせて、ハルヒは太陽も真っ青になるくらいの明るい笑顔を浮かべながら乱暴に扉を開け、今にも踊りだしそうな足取りで部室を出て行った。あわてて着いて行く朝比奈さんの健気なお姿とその後を無表情で追う長門の背中も最早見慣れたものだ(朝比奈さんだけならず長門までもがメイドさんとなっているのが唯一の相違点であるが)。
 世間のニーズとはなんなんだとか長門にまでコスプレさせるつもりなのかとかいう突っ込みは心の中だけに留め、目の前で笑顔は貼り付けたままわりかし真剣に(見える)顔でオセロ盤を見つめる、という器用な顔芸を繰り広げている古泉と共に戸締り係を仰せつかった俺は溜息をついた。今日はどうやら外で撮影会を繰り広げ、女子更衣室かどこかで着替えてそのまま帰路につく予定らしい。つまり実質SOS団の活動はこれにて終了、晴れて俺たち男子陣は自由の身となるわけである。
 だが俺と古泉のコーヒーを賭けた戦いは未だ終了しておらず、もう少しだけとめずらしく古泉が粘るもんだから仕方なくこうしてオセロは延長戦へと突入した(俺が一方的に古泉の黒石を虐殺しているだけな気もするが)。

「もう少しで勝てそうなんですがね」
「どこがだ」
 苦笑した古泉にそっけなく返事をして、次はお前の番だぞと促す。
 いつものようにオーバーな動作で肩をすくめる。困ったように眉をハの字にして笑う。ぜんぶいつも通りの動作のはずなのに、いつも見ている仕草のはずなのに、なぜだか目が離せない。馬鹿か俺は、相手は古泉だぞ? 焦がれている相手に見蕩れる恋する乙女でもあるまいし。
 そんな葛藤を悟られないよう眉間に力を込めて誤魔化す。腹を決めたのか長考していた古泉は、けれどやはり、それほど強いわけでもない、オセロに関しては人並みな腕前しか持っていない俺ですら呆れてしまう素っ頓狂な場所に黒い石を置いた。 (…あ、)
 さらり、と、うつむいた拍子に頬に落ちた髪を古泉がかきあげた。おそらく無意識だろう。だがそんな何気ない仕草に、やけに俺の心臓は心拍動を早める。さわり心地のよさそうな頬にはシミひとつなく、同じ男としてそれはどうなんだと思うほど白い。
「どうかされましたか?」
「いや…」
 それ以外にも古泉はなにか言ったのだろうが、正直俺は聞いてなかった。何故かって? 白い肌とは不釣合いな、うすい唇に目を奪われていたからさ。ああ笑いたければ笑え! だけど俺はそのとき唐突に思ってしまったんだ。
(キス、したい)
 いますぐ、ここで。
 白い頬に、しなやかな指先に、あまくやわらかそうな赤い唇に口付けたい。どうかしてるとは思うけれど。
(でも、)
 思ってしまったものは仕方がない。口付けてついばんで舐めて、あの唇をもっと赤く染めてやりたいのだ。
「あの…?」
 不思議そうな顔で首をかしげた古泉の肩を伸ばした手で掴んで、椅子から立ち上がって顔を近づける。
「顔が近いですよ」
 うるさい、なんでお前はこんなときでも余裕げに笑ってるんだ。少しは赤くなったり慌てたりしてみろ。
「あなたが本心からそれを望んでいらっしゃるとは思えませんが」
 …そりゃあ、そんな古泉はすごく気持ち悪いと思うが。そんなことはどうだっていいんだ。くそ、お前も立て。やりにくい。
 なにをなさるおつもりですか? という言葉は無視をする。どうせお前だってもうわかってるんだろ。俺がなにをしたいかなんて。不機嫌そうに吐き出してやると、古泉はやっと少し頬を染めて(それでも忌々しいことに笑顔は貼り付けたままで)仕様がないですね、と立ち上がった。
 遅いんだよ。

「ん、う」
 みずおとが響く。俺と古泉しか居ない部室は静かで、だから余計に日常とはあまりにもかけはなれたそのおとがより一層みだらに聞こえた。
 いつも思うことだが、相も変わらずかさねた唇はやわらかい。けっして女の子のようにぷっくりとしているわけでもないのに、俺と同じように薄いはずのそのくちびるはかたすぎもせずやわらかすぎもせず、丁度いつまでも触れていたくさせるようなやわらかさで、そしてとても甘かった。
「ふ、ん、…っ、こ、いずみ、」
「ん、っ…ふ、はあ…」
 みっともなくあまったるい声をもらしているのは俺も古泉も同じで、その事実につまりこいつも俺と同じような心地よさを感じているのだろうか、と思うと、嫌悪感しかいだかなかった自分の嬌声じみた声も気にはならない。息苦しさからいちど離した唇をふたたび合わせる。
「…っ、」
 絡んだ舌が、熱い。
 食べられているようだと思ったけれど、次の瞬間にはもう食べているみたいだ、とおもっていて、貪られているのか貪っているのか区別がつかなかった。そんなことはどうだっていいのだ、どうだってよくなるくらい、熱くて、気持ちよくてたまらない。
 不思議だと思う。同性である古泉と、こんなけものみたい理性もなく求め合って、それで気持ちいいと思えてしまうのだから。本当に俺はどうしてしまったんだろうか。けれどそんな思いも唾液をたっぷり絡ませた舌を擦りあわせればあとかたもなく霧散してしまった。
 それは直接下半身に響くような刺激ではないけれど、でもたしかに相手に愛されているような、愛しているような錯覚すらいだかせるじんわりした緩い快感だ。ちゅっと音を立てて舌を吸われて、お返しとばかりにあつい舌を甘噛む。
「っ、ふ…ん、きょん、く…」
「ん、!」
 おそらくそれは無意識だったのだろう、けれど普段は呼ばない俺の渾名を夢中で、あまい吐息をもらしながら呼んだ古泉の声に俺が反応してしまったのは事実だ。だってお前、なんて声出してるんだ!
 ぞわりと鳥肌が立つ。背筋を抜けるようなぞくぞくした快感に、自分でも下半身に熱が集まっていくのを感じる。情けない、古泉の喘ぎなんかで勃つなんて! だがしかし同性とこんなことをしていても俺は男だ、キスの途中でねだられるみたいに名前を呼ばれて反応してしまうのは仕方がない。…と、思わない、か?
「え、んっ…ちょ、」
「ふ、……っ、は!」
 どうやら気付かれたらしい。何故か焦りだした古泉から唇を離して頭をはたく。
「な、なんで叩くんですか…!」
「うるさいお前が悪い」
「ん、…!」  我ながら理不尽だと思いながらもういちど。こうなったら最後まで責任取らせてやるからな、覚悟しておけ。 「…は、あ……、理不尽です、っ…も、」
「…うるさい」
 お前があんまり可愛いのがいけないんだからな。
 思わず漏れた言葉は古泉にも届いたらしく、やつは真っ赤な顔をして、可愛いのはあなたの方です、なんて呆然とした表情で呟いた。