キョンは古泉がきらいだった。あの無駄に整った顔にいつもいらいらするし、成績優秀なのにも運動神経がいいのにも腹が立つ。なにより四六時中にやにや笑っているのがいけない。顔面の筋肉をあんなにだらしなく歪ませて、いったいそれがあの男にとってのどんな利益になるというのだろうか。あとは顔が近いところとか古泉の所属している機関とやらがえらく胡散臭い(そもそも本人からしてだいぶ胡散臭いのだけれど)ところとか、きらいなところは指折り数えあげればきりがなかった。そしてそんな男と恋人同士である自分にいちばん吐き気がした。

 すずみやさんすずみやさんすずみやさん、あの男はいつもすずみやさん、だ。
 休日の探索などには毎回かかさずくるくせに、たまのふたりっきりで過ごす休みは大抵あいつの「涼宮さんが、」のセリフで終わりを向かえる。ただしキョンにだってちゃんとわかっていた。わるいのはべつにハルヒじゃない。ハルヒじゃなくて、古泉だ。
 古泉は前に言った。ハルヒは無意識のうちにあのおぞましい灰色の世界を生み出しているのだと。だったらハルヒはわるくない、とキョンは思う。無意識でしてしまうことなどどうしようもない。どうしようもないのだから、わるいのはハルヒでも、ハルヒが生んだ空間でも、そこに産まれた青いかみさまの子供でもなく、古泉だ。恋人より他の女を優先する古泉だ。
 キョンはやっぱりそんな古泉がきらいだった。好きだといったのは自分のくせに、キョンがこっくりとうなずいてからはそんな素振りをみせもしない。すずみやさんが。すずみやさんに。すずみやさんの。あいつはきっとハルヒでできているに違いない、と思ったことすらある。古泉の口から出てくる名前は「涼宮ハルヒ」ばかりで、キョンの名前なんてあいつは呼んだこともないんじゃないだろうか。

「すみません、涼宮さんが」
 ほらまたすずみやさんが、だ。キョンはそうかとうなずくふりをして目を細める。
 今日だって随分ひさしぶりのSOS団の活動がない休みだというのに、キョンが誘わなければ古泉は一日中家にこもっていただろう。一緒に過ごすといってもキョンの家で妹にちょっかいをかけられながらだらだら過ごすだけだけれど。
 それでもそんな時間の浪費の仕方は、けっしてきらいではないのに。
「どうやら今日は朝から機嫌が悪かったようでして、やっぱりか、といったかんじです」
 そんなことはどうでもいい。そもそもキョンはハルヒの不機嫌を知っていたし、その理由も知っていた。たんなる生理だ。生理痛だ。
「たいして大きいものでもないのですが」
 なら行かなければいいのに、と思った。思ったと同時に口に出した。すると古泉はやっぱり想像どおりの困ったような苦笑ともいえない顔で笑って、そういうわけにはいきません、と言うのだ。
「これが僕の仕事ですから、放棄するわけにはいかないんです」
 知っているでしょう? はりつけたみたいな、それでいてむかつくことに自然に見える笑顔のまま古泉が肩をすくめた。それこそ知ったことか。おまえの仕事なんてどうだっていいし、その所為でおまえが叱られようが首になろうが俺に興味はない。キョンはいらいらと舌打ちをする。
 一歩近づくと一歩逃げた。キョンが一センチでも距離をつめるたび、古泉はその距離を規定位置に戻そうとするかのように遠ざかる。そんな仕草がどうしようもなく気に障って、わざと古泉の背中が壁にあたるまで諦めず追い詰めてから、横へ逃げられないように手をついてその中へ閉じ込めた。
「キョンさん、」
「うるさい」
 大きい閉鎖空間(ああもうこの名前を口に出すことすら忌々しい)でないのなら行かなければいい、どうせおまえなんて居ても居なくても同じなんだから。ハルヒだってべつにおまえを指名したわけじゃないんだろう、だれもおまえをヒーローに仕立て上げたりなんてしてないし、おまえだって嫌々やっているのなら、そんな役割を負わなくていいんだ。おまえなんかひとりじゃあなにもできないくせに。抱きしめることも、抱きしめかえすこともできない意気地なしのくせに。そんなやつはいらないんだ。誰かに求められたりするものか。あいされたりするものか。自分からねだったりしない、そんなやつがあいしてもらえるものか。俺以外の誰かになんて。
 古泉の胸に額をあてて、両脇の手を背中へやって、心臓を言葉でえぐるみたいにぽつぽつとつぶやくと、ひきはがすみたいに添えられていた、だけどまったく力のこもっていなかった手がだらりとぶら下がった。最初からそうしていればよかったものを。キョンがまたつぶやくと冷えた腕がおそるおそる背中に回される。
「おまえはこれから一生誰にもあいしてもらえないにちがいない」
「だれにも、ですか」
「誰にもだ。おまえみたいな陰気くさい、なにもかも諦めたヒーローきどりが誰かに好かれたりするものか」
 額のかわりに耳を胸板に当ててキョンは耳を澄ます。どくどくどくどく、自分のものと違いない心音が鼓膜をひびかせて、それにすこしだけ安心したような気がしたから、それまでずっとつめていた息を吐き出した。

 ピリリリリリリリ。そのまま大人しくしていた古泉が、しばらくしたあと唐突に震えながら着信を告げた携帯に反応してぴくりと身じろいだ。それを不満に思いながら、だけど初期設定そのままのそっけない着信音もバイブの音も不愉快だったからすこしだけキョンは腕をゆるめる。
「―――閉鎖空間が消滅したそうです」
 ほら、だから言っただろう。ふんと鼻をならして興味のない様子でまたぴとりとくっついたキョンに、どんな顔をすればいいのかわからないような、笑い方を忘れてしまったみたいなぎこちないへたくそな笑顔を浮かべて古泉はへらりと笑いかける。
「ただ腹が痛くて不機嫌になってただけだ。やっぱり行かなくて正解だったな」
「僕が行かなかったのではなくて、あなたが行かせてくれなかったんでしょう」
「当たり前だ」
 どこに恋人を放っておいて別の女のご機嫌取りに走る男が居る。ここに居ます。他愛もない会話を無意味に繰り返す。もうすこし素直に、それこそ朝比奈さんみたく心の底からにっこりと、わらってみせるならもっとちゃんと素直に古泉をあいしてやってもいいんだ。そんなことを考えながら、恋人という言葉に泣きそうな傷ついたような目をした古泉に気がつかないふりをして、キョンは目を閉じた。