ばりばりに割れたスマートフォンの画面のなかで日々樹渉が笑っている。
 日々樹渉はともちゃんの夫だ。
 ともちゃん。真白友也。結婚して、芸名は真白友也のまま活動しているけれど、戸籍上の姓はふたりで相談して「日々樹」にしたらしい。いまどきどちらかの姓にそろえる必要もなくなって、別姓にするひとたちも増えているけれど、ともちゃんが一緒に日々樹にしようと提案した。なぜなら日々樹渉がみずからの姓にとても愛着を持っていたため。こんな情報がファンに対して必要なのだろうか? それでもともちゃんは公開した。ぼくたちファンに向かって。ともちゃんはどういう気持ちだったのだろう。あるいは、ほかのファンたちは。
 ぼくは。
 週五日、たまには週六日、夜の九時を過ぎるまで残業して、朝は早くて、会社と家の往復で疲れきって、満員電車は苦痛で、なかなか給料は上がらなくて、それでも一日の終わりにともちゃんのことを見れば元気をもらえた。
 ぼくがともちゃんのことを知ったのは、ともちゃんがまだ高校一年生のころ、夢ノ咲時代のことだった。当時のRa*bitsは結成したてで、なずなさんの古参ファンと通りすがりの興味で辛うじて会場を埋められるか埋められないかくらいの、ほんとうに弱小ユニットだった。
 ぼくは仕事がステージ機材の関係で、仕事柄当時から夢ノ咲学院に出入りすることも多かった。とはいえアイドルというものにそこまで興味はなかったので、とくにだれかのファンだったりすることもなく、ただもくもくと仕事をこなすだけの日々だった。
 そんなとき、ある日機材の確認で出入りしたライブで、彼女を見た。
 ともちゃんはステージの上でユニットの定番の曲を披露しながら、強烈な光に照らされて汗を光らせながら、それでもまぶしさに目を眇めることもなく、こぼれ落ちそうな大きな瞳で一心に観客のほうを見つめていた。
 どうしようもなく、目が離せなかった。
 特別ダンスがうまかった訳ではない。特別歌がうまかった訳でもない。それでも、どうしてか、全身でいっぱいに音楽を楽しんで、「楽しい!」を届けようとしてくれている姿から目が離せなかった。
 その日のステージは、Ra*bits全員がすばらしいパフォーマンスをしていた。なずなさんはさすがのこなれたパフォーマンスに、観客を置き去りにしないたっぷりのファンサービスがすばらしかったし。光ちゃんの、飛び抜けて才能を見せつけてくれる細部までアレンジされたダンスもよかった。創ちゃんのやわらかな歌声は、はじめて聴く歌でもまるで昔から大好きだった曲のように、心地よく弾んだ気持ちにしてくれるものだった。
 気がつけば、それでもう、すっかりともちゃんとRa*bitsのファンになっていた。
 テレビの、あるいはスマートフォンの画面のなかで、はたまたラジオの向こうで笑うともちゃんやみんなを見ると、ぼくも笑顔になった。ライブや握手会には欠かさず何度も通った。Ra*bitsのファンは良くも悪くも面子があまり変わらないので、知り合いも増えたし、比較的昔からRa*bitsを推しているということでぼくのSNSでのフォロワーもなぜか増えた。
 ともちゃんの笑顔が好きだ。
 楽しいって、うれしいって、全身全霊で伝えてくれるぱっとはじける花みたいな笑顔。
 元気いっぱいのパフォーマンスも、ちょっと自分に自信がなくて、だけどだれよりもアイドルが好きでアイドルでいたい!ってがんばるところも大好きだけど、いちばんは、その笑顔だった。
 最初にその笑顔に、くるくる表情を変える明るいところに目を奪われたから。
 ともちゃんの笑顔をずっと見ていたい。ずっと応援していたい。
 ともちゃんが、ずっと、こんなふうに笑えるようにあってほしい。
 そんなとき、ともちゃんが結婚を発表した。
『いつも応援してくださっている皆さまにご報告があります。私事で恐縮ですが、かねてよりお付き合いをさせていただいていました日々樹渉さんと、このたび入籍することにいたしました。まだまだ未熟なふたりですが、力をあわせて、心を交わしながら、あたたかい家庭を育んでいけるよう、見守っていただけると幸いです。また、アイドルとしてのお仕事も、これまで以上に皆さんへ夢や希望をいっぱいに届けられるように、精進いたします。今後とも、どうか真白友也と日々樹渉をどうぞよろしくお願いいたします。』
 ともちゃんのSNSに投稿された、いつもより格式ばった言葉遣いでていねいに書かれた直筆のメッセージ。
 Ra*bitsのオタク仲間からかかってくる通話やメッセージを放置して、ぼくは何度も何度もその「真白友也」の字を読み返した。
 あれから数ヶ月。幸運なことに、Ra*bitsの現場はまだない。
 いまは、まだ、ぼく自身決めきれないでいる。ずっと愛していたともちゃんが、ひとりの男を選んでそいつと結婚して、そしてしあわせそうに笑っているということに、どういう態度を取ればいいのか。
 オタク仲間にはいろんなやつがいた。
 ともちゃんのグッズや写真集をぜんぶ燃やしてSNSを通報されて凍結されているやつもいたし、「ともちんを選ぶなんて日々樹渉にも見る目がある」なんて親面しているやつもいた。
 おおむね、ファンのあいだでは、ともちゃんの結婚は「慶事」としてよろこびをもって迎えられた。
 そりゃあそうだ。ともちゃんがあの夢ノ咲時代の演劇部の先輩とつきあっていた…それも兼ねてから、だなんてことは確かに初耳だけれど、アイドルが恋愛結婚するだなんていまどき対してスキャンダラスでもなんでもないふつうのことだ。それにRa*bitsはメンバーがそれぞれ高校一年生と三年生のころから活動しているユニットで、長いものだともう十年近く応援しているファンだってざらにいる。そういうやつらにとっては、ともちゃんたちはもやは娘とか孫みたいなもの、らしい。
 それでもともちゃんたちを「そういう」目で見ているやつらは少なからずいたし、ともちゃんの結婚報道に対して耐えきれずに暴れる姿もどうしてもファンの輪のなかでは目に入ってきた。
 べつにみんな本気でともちゃんと自分が結婚できると思っていたわけじゃない。
 なかにはもしかしたら、そういうやつもいたかもしれない。Ra*bitsは残念ながらまだまだ知名度は高くなくて、メンバーたちはそんなことはけしてしないが、握手会や物販を通して推しと「つながりたい」と虎視眈々とねらうやつはまだまだ多いのだ。だけど、そういうやつは最近では少数派だし、ほとんどのオタクからも爪弾きにされている。
 結婚後もともちゃんを応援し続けるか、それともともちゃんとこれでさよならをするのか。
 べつに本気でともちゃんと自分が結婚できると思っていたわけじゃない。それどころか、みんなが彼女に抱いているものを恋愛感情と呼んでいいのかさえ曖昧だ。
 それでも、ほんとうにほんとうのすなおな気持ちを言葉にするならば、とてもとても大切に思っていた女の子がだれかひとりの男と結婚をしたということに対して、やはり、悲しい、寂しい――という単語が浮かんでくるのだった。
 身の振りかたを決めはじめるものが多いなか、ぼくは、ぼくや数人の仲間たちは、ただ迷っていた。
 ともちゃんが、「かねてよりお付き合いをさせていただいていました日々樹渉さんと、このたび入籍することにいたしました。」と言ったその日から、ずっと。





 最近じゃ結婚するアイドルも少なくないけれど、結婚発表をしたあと、配偶者の存在に一切触れなくなるタイプと、ばんばん配偶者の話をしまくるタイプがいる。
 どうやらともちゃんは後者だったみたいだ。
 それまでユニットの新衣装やライブに伴う撮影でのオフショットや、オフの日にメンバーと遊びに行ったカフェでのパフェの写真、なんでもない自撮りが多かったともちゃんのインスタグラムをはじめとするSNSのたぐいは、その日から少しずつ日々樹渉の影を濃くしていった。
 日々樹渉の作った料理がダイニングテーブルに品のいいカトラリー類とともにふたりぶん並べられた写真や、日々樹渉がユニットのライブの遠征先でともちゃんに買ってきた意味のわからない置物のお土産。一緒に行った服屋で夫に選んでもらったコーディネートで撮った自撮りの写真。
 これまでのメインだった、ともちゃん自身と、Ra*bitsでの写真に混じって、そういうものの割合がどんどん多くなっていった。
 ある日の更新では、『ちょっと早いけど、今年用の水着決めたよ。夏が楽しみ!』と買った水着を着た写真を上げていた。それだけであればふつうの、アイドルとしてのファン向けの写真だったのだけれど……なんと、ともちゃんはだぶだぶで大きな、明らかに男物の、そして高級そうな派手な柄のパーカーを羽織っていた。
 これには、自分の気持ちも忘れて思わず笑ってしまった。いったいどこへ向けてのパフォーマンスなのだ。
 あの世間離れしたイメージの日々樹渉でも、妻の水着姿には、他人に見られないように自分のパーカーを羽織らせてしまうらしい。存外、ただのふつうの、男らしい。
 そのうちに、ともちゃんのSNSには日々樹渉にまつわる写真だけではなくて、日々樹渉本人の写真まで増えてきた。
 ともちゃんが投稿した写真でほとんどはじめてまともに日々樹渉の姿を目にしたぼくのようなものにとって、日々樹渉は、はっきりいうと言葉を失うくらい、ただただ美しかった。
 一度など、夢ノ咲時代の演劇部で日々樹渉がお姫さま役、ともちゃんが王子役をしていたときのオフショットをひっぱり出して投稿していて、その日々樹渉のあまりの儚さ、妖艶さ、完ぺきなお姫さま姿といったら――そのときばかりは、まだ手放しで彼の存在を受け入れられていないぼくでも、希少価値の高い芸術品を目にしたような気分になって、つい「いいね」を押してしまったくらいだ。
 それでいてともちゃんの隣で、あるいはカメラを向けられて笑ったり、はにかんだり、格好をつけたりしている顔は、イメージする「日々樹渉像」とは少しちがっているのだった。
 うまく言葉にできないけれど、もっと幼げで、もっと気が抜けていて、もっと大口を開けて笑っていて――もっと、「ふつうの男のひと」みたいだった。彼はとんでもないスターで、芸能人で、若くして輝かしい経歴を持つ超実力派俳優なのに。すぐそこに、手を伸ばせば届く、ただのおにいさんみたいな、そんな感じがした。
 SNSのちょっとした配信でも、積極的に日々樹渉の話をする様子ではなかったけれど、それでもコメントがそういう流れになれば、ともちゃんは日々樹渉の話をすることにためらいはなかった。
 最近友也ちゃんの髪きれい、というコメントに、「あ、これ旦那さんのケア用品最近借りてるんだ~」とうれしそうに笑ったり。きょうの服はいつもと感じが違って見える、というコメントに、「クローゼットに昔の服があったから勝手に着てきちゃった。うん。そう。へへ」とはにかんだり。
 ともちゃんは、とても楽しそうに話した。その場にはいない、自分の夫になった長年の恋人、日々樹渉のことを。
 ……じゃあ、いったい、日々樹渉がカメラを向けて撮るともちゃんはどんな顔をしているのだろう。
 気になるけれど、それを目にしてしまうのが恐ろしかった。今までに見たことがない顔をしていたら。他のだれにも見せない顔をしていたら。いよいよぼくは、ぼくたちは、もう降参するしかなくなってしまう。ともちゃんが、ほかでもない、こんなかわいい顔をして笑う男のことが大好きなんだってことに。



 ある日、おまかせ録画していたバラエティの中に、日々樹渉が出ているものが一本、あった。
 どうもほんのちょっと、一瞬だけともちゃんが映るらしく「Ra*bits」「真白友也」でキーワード登録してあるうちのHDが録画してしまったらしい。
 してしまったらしい、といってもやはり、ともちゃんが一瞬でも映るなら、見たいは見たい。
 微妙な気持ちで早送りをまじえながら、にぎやかなセットに引けを取らない華やかさで現れた日々樹渉を見る。
 そこで、あれ? と思った。
 あれ? 日々樹渉って、こんな顔してたっけ?
 ともちゃんのSNSに出てくる日々樹渉はもっと、なんというかただの二十八歳の男のひとだった。
 そりゃあもちろんびっくりするくらいきれいな顔をしたひとで、やっぱりアイドルとか芸能人っていうのはちがうなあと思うようなつくりをしているんだけど、そういう話とはべつに、ぜんぜん、「ふつーの男のひと」だったのだ。その「ふつーの男のひとっぽさ」が、ぼくたちともちゃんのファンにより一層なんともいえない悲壮感をもたらした理由でもあるのだけれど……。
 とにかく、ともちゃんのとなりにいる日々樹渉は、こんなふうに全体的にスマートで、そこはかとない上品さがぬぐえなくて、言ってることはとんちきだけどどこかエレガントさのある感じとは、また違っていた。
 バラエティはゴールデンタイムの全国放送で流れている、たくさん芸能人のゲストを呼んで毎回トークテーマが変わる形式の番組で、そして今回のテーマは「ちょっと自慢したい家族の話」だった。
 ゲストの中にはおしどり夫婦と呼ばれる大御所俳優も多いが、新婚家庭は日々樹渉ひとりだったから、おのずと注目は彼に集まる。というよりも、「あの日々樹渉」が新婚家庭であり、いままでほとんど表に出なかった彼のプライベートな視点から家族を語る、というのがウケそうだから、この回にわざわざ日々樹渉が呼ばれたんだろう。
 さまざまなゲストがちょっとした笑いを取る用の愚痴まじりに家族での楽しかったエピソードや、ちょっとヘンなエピソードを語るのを、早送りで飛ばして。
 日々樹渉がふと画面に大きく映って、ぼくはほとんど反射的に「再生」ボタンを押していた。
 司会者が日々樹渉になんと語り掛けたのかはちょうど飛ばしてしまってわからなかったけれど、そのとき、日々樹渉はふとやさしい顔をした。一瞬だけ。
『そうですねぇ~、私も妻も、ありがたいことに最近はほとんど毎日仕事でばたばたしていますから……どの家事がどっちの仕事、というよりも、気づいたときに手が空いているほうがする、という感じですかね』
 どうやら家事の分担の話をしていたらしい。これはともちゃんのSNSで読んで知っていた。日々樹渉は、ともちゃんに比べると、かなり細かく家事をやっている。炊事掃除洗濯はもちろん、浴室の椅子の水あか取りや、大切に着ている洋服の染み抜きや手入れなんかも好き好んでやっているらしい。
 こういうでかくてきれいな男のひとは、それこそ風呂と洗顔以外で水に手をつけることなんてないんじゃないかと思っていたから、びっくりしたのを覚えている。
 そういえば、と日々樹渉は、ぷっ、と小さくふきだした。
『そういえば、このあいだオフが被った日の昼間、妻……友也くんがリビングに面したベランダでぼうっと突っ立っていて。ひなたぼっこですか? と聞いたら、振り返った顔がはんべそで。どうも朝、私の服を勝手に着て、それにお昼のカレーをこぼして染みをつけちゃったようなんですね。それがそれなりに高価なシャツだったものですから。なんとか染みが消えないかと、半泣きでシャツを着たまま日光に当てて……フフ』
 その後、おひさまの力でターメリックの染みは無事に消えました☆ と締めくくる日々樹渉の顔は、ちょっとだけ、ともちゃんのSNSで見慣れた顔をしていた。
 そのあとも早送りでちらちらと見ていると、ゲストのお宅紹介のコーナーでどうも日々樹渉とともちゃんの新居が公開されるようだ。これは見たい。ともちゃんの家、だけでなく、ともちゃんと日々樹渉の家、なのがどうにも複雑だけれど。
 はじまったVTRのなかで玄関ドアを開けて、迎えた日々樹渉がにっこりとほほえむ。
『どうぞ~! ようこそわが家へ♪』
 fineが歌番組に出ているときなんかに見る、芝居がかった上品な礼をして、日々樹渉がカメラを玄関からリビングへと案内する。ちらっと映った玄関は日々樹渉の「大物芸能人」のイメージに、あるいはみょうちくりんな手品を披露する浮世離れしたイメージにはあまり似つかわしくない、こじんまりと季節の小物で彩られた、よくいる夫婦二人暮らしの小さな家という感じだ。
『ここがリビングです! 仕事柄映画やドラマはたくさん見ますから、ホームシアター機能も備えています』
『こちらはダイニングですね』
 と日々樹渉が手際よく家のなかを順番に紹介してゆく。あたたかそうな色合いのカバーがかかった三人掛けのソファ。役者のふたり暮らしなだけあってか、相当インチ数の大きそうなテレビ。いまどきサブスクが行き届いているっていうのにあのひといまだに毎月めちゃくちゃな本数買うんだ、とともちゃんが配信で話していた日々樹渉のコレクションの、膨大な数の映画のディスクたち。
 ともちゃんの話から想像していたイメージよりもずっとシンプルでこじんまりとした住まいだと思っていたら、おなじ配信でともちゃんが愚痴っていた、昔から減らないどころかどんどん増えるばかりの、謎の置物とか、仮面とか、ポスターとか、花びんとか、外国の絵本とか、アンティークのぬいぐるみとか、繊細な型で作られたキャンドルだとか、それらがかなりよく見えるくらいほんとうに使い道もよくわからない謎の伸びる紐みたいながらくたとか、の日々樹渉の謎コレクションは非公開の別部屋に収納してあるらしい。鳩たちも専用のお部屋でゆっくりおやすみしていますよ、と日々樹渉は言った。扉の前を通ってもさわぐ様子を見せないので、相当きちんと躾られているようだ。
 カメラは踊るような足取りの日々樹渉を追って、ひろびろとしたキッチンに入ってゆく。
『こちらがキッチンです。料理はお休みの日によくします。純和風からイタリアン、昔ながらの喫茶風洋食、エスニックでもなんでもお任せあれです☆』
 日々樹渉が扉を開いて見せてくれたパントリーは雑然としていたものの、よく使いこまれた感じがして、さまざまな食材やスパイスや調味料の透明なびんが並んでいた。
 スタッフがマイク外で尋ねたのか、にこにことした笑顔のまま耳を傾けている様子だった日々樹渉が、ええ、とおおきくうなずく。
『そうですね、妻と一緒に料理もしますよ。だから広めのキッチンにしたんです。え? 妻の作る料理で好きなものですか? ……そうですねぇ~、昔作ってくれたスープが、とくべつおいしいってわけじゃないんですけれどあたたかくて、安心する味で……おいしかったですよ』
 背を向けた日々樹渉がのんびりと歩いて、玄関口ちかくの扉へカメラを案内する。
『お風呂はこちらです! 入浴も大切なケアですから、脚が伸ばせる広めのところにしました』
『これは最近使っている基礎化粧品ですね。ここのブランドのものがなかなかよくて……』
 そのとき。洗面所の扉の外から、ただいま~とよく知った声がした。
『友也くんが帰ってきたみたいですね』
 言って、日々樹渉は扉からばあっと飛び出して、
『おかえりなさい!』
 とおおきな喜色ばんだ声でともちゃんを迎えているようだった。
『わ! そうだった。きょう撮影って言ってたっけ』
 扉の向こうからぴょこんとあたまだけ出して、ともちゃんがカメラに向かってにっこり笑う。
『ただいま~こんにちは~! 真白友也です。ゆっくりしていってくださいね』
 そのまま廊下の奥に姿を消してゆくともちゃんに、撮影中だというのに親鳥につきまとうひな鳥のように日々樹渉がついてゆく。
 かすかに「ともちゃん~」とともちゃんを呼ぶ声が聴こえた。
 ともちゃんは映らないんですか? え、いいよ(笑)。ほらちゃんとカメラさんところ戻って。あんたが出るバラエティのVTRでしょ?
 笑いあう声をバックに映像は暗転してゆく。フェードアウト。
 ぼくはなんだかそこから見る気をすっかりなくして、テレビの電源を切った。
 遠くで日々樹渉に笑いかけるともちゃんの声ばかりがあたまのなかで鳴っていた。





 きょうの仕事は、取引先がスターメイカープロダクションだった。今度の新規ユニットの初ステージでうちの会社にセットを任せてもらえることになったのだ。夢ノ咲学院のころからよく使ってもらっていたなじみが深いユニットが多いので、ここからはよく新規の仕事も頼んでもらえる。
 アンサンブルスクエアのひときわ大きなビル、スターメイカープロダクションの受付前のロビーで、待ち合わせた向こうの担当者を待っていたとき。
 エレベーターから降りてきた人びとのなかに、なんとなく、ひときわ目を惹く男がいた。
 目を惹くというか、なんというか目立つ感じではなくてむしろ地味な上着に黒いスラックス、黒キャップにやぼったい眼鏡、顔立ちもどこからどう見ても平凡などこにでもいそうなタイプで、ごくごくふつうの「一般人」という感じなのだけれど。
 とくべつ姿勢がいいとか、動きがきびきびしているとか、そういうわけでもないのに。むしろ猫背気味の背中も、とぼとぼとした足取りも、どこの街中の駅にもいそうなひとなのに。逆になんだかその「どこにでもいそう」な立ち居振る舞いがすごく堂々としていて、そのあんまりに完ぺきに調整されたような「一般人感」がなんだかあからさますぎて、まるで映画のなかから飛び出してきた「一般人」みたいなのだ。
 あまりにぼくが見すぎたのか、視線を感じてか男は「おや?」という顔をして、こちらを見た。
 人の流れに紛れるように出入り口に向かっていたはずの脚をこちらへ向けて――よくよく観察してみると、この脚もなんだかひとよりもずいぶん長い――ずんずん大股で近づいてくる。
 あんまり見るから不躾だっただろうか。あの感じだと、なんというか、まるでお忍びの芸能人のひとみたいだし、高圧的なひとだったらどうしよう。不興を買って文句を言いに来たとか? ぼくはちょっと不安になって、どきどきしながらその男を見た。
「おやぁ」
 そして、男が口を開いた瞬間に、気がついた。
「人目につかないよう変装したこの私に気づくなんて。さては、私のファンの方ですねっ」
 ぼくが気がついたということに、なぜかこの男も気づいたらしい。
 ぼくがこの男のファンなわけがない。
 日々樹渉。
 ぼくたちからともちゃんを奪った男。
 ……いや、たとえ男と結婚したからといって、ともちゃんの存在がその男のものになるわけではないし、その価値が棄損されるわけでもない。そういうことは重々承知だ。承知のうえでも、どうしようもなくしおれた心はもとにはもどらない。
「……ちょっとなんのことか、わかりません」
 声も見た目も、立ち居振る舞いまでちがうのに、どうして気づいてしまったんだろう。気づかなければよかった。
 ぼくがしらんぷりをしてだまっていると、ぼくが下げている出入りの業者が首に下げる関係者札を見つけたのか、日々樹渉は業者のかたですか、いつもありがとうございます。と愛想よく笑ってみせた。ぼくもとりあえず取引先の人にするように「お世話になってます」とあたまを下げる。
 そのまま、なぜか通りがかっただけのはずの彼が立ち去らないので、沈黙が落ちる。
 なんで? このひとは自分に気づいたぼくを自分のファンだと思ったのかもしれないけれど、ぼくはべつに日々樹渉のファンじゃない。ファンじゃないと言ったのだから、そろそろ立ち去ってほしいんだが。なんでこのひとはずっとここに居るんだ? そもそもどこかへ行く途中じゃなかったのか?
 じっと見られていることが居心地が悪く、また会話がないのも意味がわからなくて落ち着かない。
 じっくりと沈黙が五分は続いたあと、とうとうぼくは根負けをして、とりあえず愛想笑いを浮かべて、日々樹渉に話を振る。
「このあいだのバラエティ、見ました」
「ありがとうございます! 日々樹渉のお宅初公開のVTRを撮ったやつですね!」
 男は眼鏡をずらして、にっこりと完ぺきな華のある笑顔を見せた。
 そうすると隠れていた宝石のような切れ長の目が眼鏡の隙間にきらりと光って、冴えない風体とはまるで違った印象を受ける。派手な銀糸の髪をキャップの中にしっかりと仕舞って地味な格好をしていても、よくよく見るとしっかりとした大人の男の恵まれた体格は隠されてはいないし、洗練された雰囲気はドオタクのぼくにもわかるくらい漂っている。
 仕事柄、いろんなアイドルと現場を共にすることが多いけれど。彼はレベルが違う。ひととは一段ちがうところにいると、立ち居振る舞いだけで、それだけでわかる極上の男だ。
 でもやっぱり、ともちゃんの更新するSNSで見るときとは印象が違う。
 ともちゃんが話す日々樹渉は。ともちゃんの映す日々樹渉は。
「……ともちゃんって」
 ともちゃんのバースデーグッズの、ともちゃんがデザインしたちょっと不格好なうさぎの缶バッジが、ぼくのかばんにくっついて視界の端できらっと光を反射している。
「家では、ともちゃんって呼んでるんですか、ともちゃ……真白さんのこと」
 ともちゃんを「真白さん」と呼んだのは一種の威嚇というか、対抗心だった。
 おまえと結婚したからといっても、ともちゃんはずっとぼくたちのRa*bitsのともちゃんなんだからな、という。
 内心、ふだん接することのないこんなヒエラルキーの頂点みたいな男を目の前にして、ぼくはびびりにびびってがくがくと脚が笑っていたけれど、こんな機会はもう二度とないだろうから、どうしても一言言ってやりたかった。
 不機嫌さを見せるかと思った日々樹渉は以外にも――いや、この男ならそうするのだろう――にっこり笑って、そうなんです、とうなずいた。
「……ええ。結婚してから、しばらく経ってからでしょうか。ある日彼女が、自分のことを『ともは…』って言ったんですよ」
 語り始めた男にぎょっとする。
 なんだよ、こんなところでも惚気か? SNSでは飽き足らず? いや、ぼくは、ともちゃんのSNSを見ているだけで日々樹渉が彼のSNSをどういうふうに運用しているかはわからないけど。
 日々樹渉の声は周囲にはちっとも漏れていないだろうくらいに小さく、けれど彼が舞台に立ってちいさなつぶやきをもらすときのように、芯を持って、ぼくの、ぼくだけの心臓に届こうとしていた。
「おうちでは、きっとずっとそう言ってきたんでしょうね。けれど私の前でそう言ってくれたのははじめてでした。そのとき私は、あらためて、彼女の家族になれたのだと思って……ゆるしてくれたのだと、そう思って。とてもうれしかったんです」
 そのつぶやきは、正確にぼくの心を捉えた。
 ずっともやもやして、ぐずぐずして、ともちゃんがだれかを好きになってそいつと結婚する、ということが納得がいかなくて悲しくて苦しかったことが、ふわ~ん、とどこかのピースがはまったみたいにすんなりと心に入ってきた。
 そうか。ともちゃんは新しく、大切なひとと、家族になったのか。
 日々樹渉はともちゃんの夫だ。
 それで、高校の時からの部活の先輩で、いまも同じ劇団で活動をしている。
 ぼくたちの知らないともちゃんを知っていて、ともちゃんもきっとぼくたちの知らない日々樹渉を知っていて、そして彼はともちゃんをいつくしんでいる。
 ともちゃんをあいしているのだ。
 ぼくたちとおなじに。
「いまの話、オフレコにしてくださいね。うさぎの国の住民さん」
 ナイショです、とひとさしゆびを薄くかたちのいいくちびるにそっと当てて、ほほえんで彼は去っていった。
 それから待ち合わせていた担当者のひとがきて、会議室に通されて仕事の話が始まっても、ぼくはしばらくぼうぜんとしたままだった。



 ともちゃんが結婚してから、はじめてのRa*bitsのライブだった。
 今回のツアーは小さなライブハウスばかりで、そのぶんふだんは回れないような全国のこまごまとした地方にまで来てくれる。ぼくは仕事の都合で参加できたのは地元近郊のライブだけだったけれど、直接Ra*bitsのみんなと会えたファンの感想はぼくを笑顔にしてくれた。
 そしてなにより、汗を輝かせながらとびきりの笑顔で、いつもみたいに歌って踊る、元気いっぱいのパフォーマンス。ぼくが好きになったともちゃんそのままだった。
 ライブハウスのまばゆい照明に照らされてきらきら輝く、ちいさな女神さまのようだった。
 ぼくはさみしかった。
 ちいさなぼくの女神さまが、だれかたったひとりの王子さまを見つけて、それからはしあわせに暮らしました、めでたしめでたし、になってしまうことが。
 だって、ぼくには、だれもいないのに。舞台の上からぼくを見つけて笑ってくれるのは、きみしかいないのに――ともちゃん。そう思っていた。
 けれどそうじゃないんだ。ともちゃんはなにも、捨ててなんかいないんだ。ともちゃんはぜんぶ拾っているだけ。ともちゃんの心に日々樹渉の部分が増えても、それはぼくたちファンや、Ra*bitsのぶんが減るわけじゃない。ともちゃんの心に、日々樹渉というともちゃんをあいしてくれる、あたらしい大切が増えるだけ。
 ライブのあと恒例のメンバーとの握手会、ぼくはともちゃんにライブの感想と、一言だけ「日々樹さんのどんなところが好き?」と聞いた。
 ともちゃんは一瞬びっくりしたような顔をして、けれどぼくが穏やかに笑って待っていると、またにっこりと笑ってくれた。
「う~ん、そう言われると自分でもいったいあのひとのどこが好きなんだ? って思っちゃうんですけど……」
 たはは、と笑って、ともちゃんの白く細い指先がやわらかいほおをかく。
「やっぱり笑ったところかなぁ」
 はにかんだともちゃんの笑顔がまぶしかった。まるで見たことがない、しあわせそうな笑顔だった。ううん。ともちゃんがぼくたちに見せてくれる、楽しい、うれしい、の笑顔と、種類はちがうけれど、きっとおなじ笑顔だ。
 ともちゃん。ぼくはともちゃんの笑ったところが大好きだ。
 いまがうれしい、楽しい、大好きだと、ちいさなからだ全身で、せいいっぱい教えてくれるはじける笑顔。
 そんなともちゃんの宝ものみたいな笑顔を愛しているひとが、ともちゃんの大切な家族になって、いまは、うれしく思うよ。
 結婚おめでとう。ともちゃん。



 それからしばらくして、Ra*bitsのみんなが無事にツアーを完走したあと、ともちゃんが妊娠を発表した。
 それに伴って産休を取ることになったともちゃんに、あしげく現場に通っていた時間と金がぽかんと宙に浮いて、ぼくはその金でスマートフォンを新調した。
 新しいスマートフォンは画面も割れてがたがきていた前のものよりもずいぶん快適で、たとえばSNSなんかを見るのも、すごく使いやすくなった。
 日々樹渉のSNSのアカウントは、まだフォローできないけれど。
 ぴかぴかの最新のスマートフォンの画面のなかで、ともちゃんのインスタグラムに登場した日々樹渉がきょうも笑っている。
 ともちゃんにしか見せない、ともちゃんの好きな笑顔で。

▼ 渉友♀再録本の書きおろしでした(2023.4.11)