日々樹渉がその年、俗にオスカーと呼ばれるその栄誉ある賞を受賞することは、関係者であればもはやだれの目にもあきらかであった。
 夢ノ咲学院を卒業してから数年。日本国内だけでなく世界各国にその嵐のような存在をはためかせた渉は、いまや栄光あるアイドルユニットfineの一員としても、ひとりの「日々樹渉」という俳優としても、あるいはマルチなショーを行うエンターテイナーとしても、栄華を極めつつあった。
 渉がオファーを受けたとある国の映画はロサンゼルスの劇場で三か月にわたって上映され、また全世界でも人々は劇場にあしげく通い、そしてあくる年の二月末。
 二十八になった渉は、すらりと長い脚に品のあるスーツをまとわせて、レッドカーペットに降り立っていた。
 日々樹渉のほかの誰にもない雰囲気をさらに魅力的に見せるような、華やかで、しかしエレガントさも纏った品のいい、上等な生地のスーツがあちこちで光るフラッシュを反射してきらりと光る。
 プレゼンターから主演男優賞として壇上へ導かれた渉は、ネイティブと遜色ない英語でごくシンプルなよろこびのスピーチを行い、会場をあとにした。
 日本人として史上初、また賞としても最年少での受賞に日本のメディアは大いに沸き立ち、オスカーの授賞式を終えたばかりの渉のもとへと気色ばみながら急いだ。
「日々樹さん! 日々樹渉さん! 主演男優賞の受賞、まことにおめでとうございます!」
 母国のメディアに渉は愛想よくほほえみ、長い脚をとめてふりかえった。
 まぶしいほどのフラッシュが渉の美貌を照らし出し、無数のマイクがそのうすいくちびるに差し向けられる。
「ありがとうございます。これも応援してくださったみなさんのおかげです」
 渉が、自分がいちばん魅力的に見える仕草で首をかしげると、よく手入れのされた涼やかな水の流れのような長い髪がさらりと肌を流れる。
 インタビュアーたちはほうっと恍惚としたあまい息を吐いた。きっとこの中継映像が流れている、日本のテレビやタブレット、スマートフォンの前のファンたちも同じようなうっとりとした顔をしているにちがいない。
 渉は作品に関するいくつかの質問に、ときに真摯に、ときにはジョークを交えておどけたふうに応えた。
「この映画のいくつかのテーマのうちのひとつは『身近にある幸せ』ですが……日々樹さん、日々樹さんの最近あった幸せなこととはなんでしょう?」
 インタビュアーの、渉のプライベートに肉薄はじめた質問に、渉はうっすらとほほえんだ。大きな口の端がくっと吊り上がって、美しい顔がにんまりと笑みを描く。
「そうですね。フフフ……この上なく! 幸せなことがありましたよ! まちがいなく私の人生で最良の日でした!」
「おおっ、どういったことでしょう?」
 身を乗り出したインタビュアーの差し出したマイクをいまにも手に取りそうな勢いで、きらめくカメラをみつめて、渉はどこからか色とりどりの花びらを巻きながら堂々と宣言した。
「この日々樹渉、つい先日、かねてよりおつきあいしておりました真白友也くんと入籍いたしました!」
 しん、と一瞬、あたりいちめんに華やかな場にそぐわない沈黙が落ちる。
 数秒して、インタビュアーたちがざわっと口々におどろきを発しはじめた。
 しばらく渉の周囲はひとびとの驚きの声と、このトップアイドル日々樹渉の結婚というビッグニュースをいち早く視聴者に伝えなければと慌てる会話で満ちる。
 彼らの慌てぶりを補足すると、日々樹渉がだれかと交際しているというような発表はいままでになかったし、渉はその如才ないふるまいでだれかとのスキャンダルを抜かれるようなこともなかった。そう、あえて事務所や経営側が流すような噂ひとつですら。
 日々樹渉は、彼があらゆるシチュエーションで口にしてきたとおり、真実「みんなの」「あなたの」日々樹渉だったのだ。
 それが、たったひとりの――それも、とくべつ仲がいいとか、交際をしているとかいう噂すらなかった人と結婚するだなんて。
 その瞬間、SNSではつい数時間前からトレンドを支配していた日々樹渉のオスカー主演男優賞に替わり、「ひびわた結婚」「真白友也って誰」がトレンドのトップに躍り出た。
 お茶の間のおやつに日々樹渉の授賞式の様子を映し出していたワイドショーたちは、あわてて彼と「真白友也」の関係について超特急で特集を組みだした。
 「劇団ドラマティカのメンバー」「夢ノ咲時代の演劇部の後輩」、日々樹渉の周囲にいる真白友也という存在には、いままでその程度の情報量しかなかったからだ。
 「日々樹渉」と検索すれば、そのサジェストに入るのは彼のユニットのリーダーや夢ノ咲時代から仲がいいとおおやけになっている旧友ばかりだった。画像検索の結果には英智とのライブでのキスシーンや手を取ってエスコートする場面が多く並んだ。
 それは友也も然りで。友也はRa*bitsとしてデビューした当初から、部活の先輩である北斗のファンだと言ってはばからなかった。おのずと、真白友也と仲のいい先輩というと氷鷹北斗であるとファンからは受け止められた。それに、とりわけ友也と親しい仲というと、名前が挙がるのは紫之創だった。彼もまた、友也とのライブやオフでのスキンシップがファンから貴重がられている相手だった――そしてなにより、名実ともに友也にいちばん近い親友だった。

 友也がこの大騒ぎに気がついたのは、舞台の稽古が終わった五時間後で――渉の晴れ舞台だとオスカー中継の録画こそしていたものの、まさか渉がインタビューでとつぜん相談もなしにふたりの婚姻を公表するだなんて思ってもみなかったのだ。
 マナーモードにしていたスマートフォンにはそれこそパンクしそうなほど、山のような百件以上の着信履歴とトーク通知が溜まっていた。
 あとから聞くに、あわてて直近でトークが来ていた鉄虎に連絡を取ったところ、緊急速報で「俳優の日々樹渉さん(28) アカデミー賞主演男優賞受賞」「俳優の日々樹渉さん アイドルで俳優の真白友也さん(26)との入籍を発表」と流れるスクリーンショットが送られてきて、膝から崩れ落ちたらしい。
 もうひとりの縁深い後輩である北斗からは、結婚祝いで友也を連れて行ったレストランで「なにもかもめちゃくちゃなんですよあいつは~!」と泣きつかれた、と聞いた。
 「『いまさらだろう』とは言ったものの、いい加減友也を振り回してやるな」と北斗はあきれた顔でため息をついていた。
 そんな北斗に渉はただ、いつもどおり大きな声で笑ってこう言うだけだった。
「そんなつまらないことができると思いますか? この日々樹渉に!」



 まるでドラマみたいなどたばたの結婚をしたのに、それからふたりを待っていたのはごくごくふつうの結婚生活だった。
 あの日々樹渉と結ばれて、オスカーの授賞式で結婚を発表するだなんて映画みたいな展開をしておいて、こんなにも「ふつうの」生活を送ろうとする者がいるだろうか。
 いるのだ。ここに。真白友也という名前の男が。
 破天荒な渉に一見めちゃめちゃにふりまわされているようでいて――そして事実、ふりまわされているのだけれど――友也も友也で、帰国した渉のスケジュールを押さえて急遽セッティングされた結婚発表記者会見の日、カメラに囲まれるまでぼうぜんとしていたくせに「お相手に一言いただけますか?」という記者の質問にとつぜんきりっと真剣な顔をして「俺が幸せにする……しますから」と言ってのけた男だ。案外肝が据わっている。
 日々樹渉は世界的なエンターテイナーで、世界中のひとびとの驚きを愛していて、そしてそれはごく個人的な場でも「そう」だった。あまりにもはちゃめちゃな、「常識」を実践しない男だった。気を許した相手にはとりわけその傾向が強く、交際をはじめて、そして結婚をしてからの友也にももちろん、渉のめちゃくちゃさは容赦なく降りかかった。
 とつぜん真夜中に友也を起こして、公園でしゃぼん玉を吹いたり。朝の五時半から、どこからか持ってきた栗を使っていちから渋皮煮を作らせたり。学生のころよりも成長した友也にはとっくに似合わなくなっている演劇部時代の衣装をひっぱりだしてきて、寝ている友也にいつの間にか勝手に着せたり。
 学生時代の友也が悲鳴をあげていやがっていたはずのそれらを、しかし日々樹渉の配偶者となった友也は大騒ぎしながらも笑って、ときに困ったふうにほほえんで、あるいはすなおに渉を叱って、受け止めるのだった。
 「明るいときのほうがいいだろ」と言ってあらためてオフの日の昼間にしゃぼん玉につきあってくれたり。「こんな時間からなんだよ~」とぐずりながらも「渋皮煮って何? 俺食べたことない」としょぼしょぼした目をこすってレシピを携帯で調べたり。さけび声とともに飛び起きて、ばっちりヘアメイクまで済まされた自分に鏡を前にぼうぜんとしたあと、その日の仕事の入り時間までもうぎりぎりだということに渉にこら~! っと叱ったりしながらも。
 最後にはいつも、「あんたってほんと……」とため息をついて、そして仲直りのキスをしてくれる。
 渉はときどきわからなくなる。
 友也がどうして、こんな、彼にとってのめちゃくちゃさを最後には簡単に許してしまうのか。
 渉のふりまくそれらに彼は何度でも新鮮におどろいて、けして慣れたそぶりは見せないくせに、いつのまにか日常のワンシーンとして受け入れてしまうのだ。
 だいたい、ふたりで婚姻届を出しに行った日からしてふつうだった。
 宝飾店へ指輪を受け取りに行って、役所の窓口に婚姻届を出して無事受理されて、それから友也の予約したちょっといいレストランでディナーを食べた。
 そう、特別な日にはちょっとだけ特別な場所でお祝いをするのだと、ふつうのお祝いの仕方を教えてくれたのも友也だった。そのレストランはふたりの特別な場所で、渉の誕生日に友也がプロポーズをしてくれたのもそこだった。
 友也が教えてくれる「ふつう」は、渉にとってなにも意外ではなくて、みずから体験することはなくともフィクションやひとびとの様子から思い描いていたありふれた日常のとおりで、ただ渉の知らないにおいと色とてざわりを持ってそこにあった。
 まるでこことはべつな宇宙のはしっこのように。

 渉は、友也のことが好きだ、と、自分は彼に恋をしているのだとはっきりと理解した日のその瞬間のことを、いまでも手に取るように覚えている。
「ごめんなさい。好きなひとがいるから」
 渉はまだ卒業を控えた学生で、ある日中庭で普通科らしき女子生徒に告白されている友也のことをふと――ほんとうに他意なく、ふと脚が進んだ先で見つけたのだ。
 友也とおなじくらい背が高く、すらっとしていて、背中のなかばまで伸ばされた黒髪はつやつやとよく手入れされていた。ちらりと見えた横顔は白く、顎のラインは華奢で、なめらかに整っていた。さぞ彼の好みの女性だったろうに、友也は真剣な顔で、彼女の好意に首を振った。
 ごめんなさい。好きなひとがいるから、と。
 アイドルだから、でもなく。彼はそう口にしていた。
 やがて去っていく彼女を見送って、ふうっとおおきくため息をついたあと。
 彼はぼうっと空を見上げて、ぽつんとつぶやいた。
「……そうか、俺って好きな人、いたんだ」
 おさない顔はほのかに上気していた。ふしぎそうで、けれどどこか腑に落ちたようで。こぼれ落ちそうな大きな目は春の気配のにおうつめたい空気にきらきらとまたたいていた。
 自分でもびっくりしたみたいにそう言って、はにかんだあの顔を見た、そのときから。
 彼の「好きなひと」がだれであるのかと、そのことが何度もあたまをよぎった。
 この日々樹渉が。
 たかが部活の後輩で、とりたてて才能があるわけでもない彼の、どうだっていいちっぽけな恋路を気にするだなんて。
 けして、あの月に誓ってそんなことを願ってはいないけれど――友也の恋がかなわなければ、と、そんなことばさえ脳裏に浮かんだ。
 その日から友也は、ひとつひとつ渉の調子を崩してみせた。
 恋に浮かされるなんて、凡人のすることだ。
 天才の――日々樹渉の領分ではない。
 そう思ってもみたけれど、やがて渉も、いままで知らなかった自分の心の動きを認めるようになって。
 まるで物語みたいな凡人の恋に踊らされるのは、案外楽しい日々だった。
 恋しいひとへの気持ちでばかになるあたまを恐れないでいい。これまでと同様に思うままにならない、うまくコントロールできない感情ですら乗りこなして、みずからその手を取って踊ればいいのだ。
 そうして踊っていたら、いつのまにか友也がこの手を取っていた。
 彼の「好きなひと」は、こうして手を取って一緒に踊りたかった相手は、渉なのだという。
 そう言って友也が手を引いて見せてくれる世界はふつうで、なにも変わったところはなくて、けれど渉のそれと違って手にとってみれるような近くにあるいろいろな星々のまたたきは、はじめて見たかのように濃く、色鮮やかに、しっかりとした質量を持ってここにあるのだった。
 これが彼の生きている世界かと、そう思った。
 ならば知りたかった。真白友也は日々樹渉ではない。
 いまは、いまなら、彼が日々樹渉でなくてよかったと、そう思えるから。
 渉にとってはそうして見えるひとびとのいとなみは、ぬくもりは、たしかに見知らぬひとつの宇宙の入り口だった。




 その日、帰宅すると友也がリビングでバラエティを見ながら渉を待っていた。
 ユニットでの収録が長引いて、いつも早寝な友也ならもうとっくにベッドのなかにいるような時間だ。
 お互い不規則な仕事なので、一緒に暮らしはじめて早々に「生活のリズムを無理をしてまで合わせるのはやめよう」と決めていた。
 とはいえ、結婚してからも配偶者を恋しく思う気持ちはつのるばかり。無理をして遅くまで待つことはしない代わりに、家を出なければいけない時間よりもほんのすこしだけ早めに起きて朝食を一緒に摂ったり、可能ならば入り時間を合わせて共に家を出たりすることが多かった。
「あ、おかえり、渉」
 音量の落されたテレビから振り返って、友也はやわらかな笑顔で夫を迎えた。
 無理をしてまで合わせることはない、とは決めたものの、お互いプロとして無理のない範囲であれば、自分の時間をずらして家族を待つこともある。
 なにか渉を待ちたいことでもあったのだろうか、と頓着なく考えながら、友也に「ただいま帰りました」と笑いかけ、手洗いうがいを済ませてリビングに戻る。
 じっと渉を見つめるおさない顔にもういちどニコッと「ただいまです」と笑ってみせると、夫は渉よりふたまわりはちいさいからだで、なぜかぎゅうっと抱きしめてくるのだった。
「よしよし」
 渉ひとりでいっぱいになってしまう腕のなかで、まだやわらかさの残る手に髪をそっと撫でられる。しばらくきょとんとされるがままになっていたが、なでなでと愛撫を受けるうちに、気がゆるんで詰まっていた息をほうっとつく。
 結婚するまえ、もっといえば恋人になるまえから、友也にはいまいち通用してほしい顔が通用しないときがあると思っていたけれど。渉自身がみずからそうとは把握していないような気分まで、気づいてしまう技を身につけたらしい。
 ユニットでの公演は、渉にとってよろこばしいひとつの舞台だ。
 観客が、そしてユニットの皆が日々樹渉を見ていてくれることに、喝采をくれることに胸が晴れるような心地がして、からだの底から力が湧いてくる。
 それはどこまでも高く晴れた空を自由に飛び回り、そして仲間の待つ群れときまぐれにカーブを描いたりする、愉快で高らかな旅だ。
「お疲れさまでした」
 夫の、空気を含んでやわらかくあたたかくかすれた声が耳を撫でる。
 きっと友也もおなじよろこびを、彼のユニットで感じているのだと思う。
 日々樹渉はアイドルで、真白友也もまたアイドルだ。おなじ役者であるけれど、自分は「fine」で彼は「Ra*bits」だ。それぞれが築いてきた関係も、得られるよろこびも、これからに描いている未来図もちがう。
 渉はいまの彼の「ユニット」を気に入っている。このまま、いちばん前を飛ぶ彼の指揮者が、いったいどこへ渉たちを導いてくれるのかを最後まで見届けたい。それがアイドルとしての日々樹渉の望みだ。
 そのためなら、この日々樹渉にできることならばなんだってしようと、いまはそう思う。
 ――そしてこうしてふたりで暮らすこの家に帰ってきたとき、渉はやさしい風の吹く草原に生えた一本の木に留まって羽根を休めるときのような、そんなやわらいだ気持ちになる。
 願わくば、渉にそんな場所をくれた彼も、おなじ居心地のよさを感じていればいい。
「ご飯は?」
 髪をゆっくりと梳きながら言葉少なに聞かれて、黙ったままこっくりとうなずいた。
 友也がこういう口のききかたをするとき、渉はいつもなんだかむずむずして、普段のように破天荒にふるまっておもしろおかしく友也を笑顔にしてやりたいのに、どうしてかなにも言えなくなってしまう。もじもじと親のまえで恥じらうちいさなこどものように。
「お風呂、あしたにしとく?」
 沸いてるけど。渉の好きな入浴剤、入れてあるよ。
 やわらかな指が、渉の髪の先を巻きつけてはほどき、巻きつけてはほどいてくるくると遊んでいる。
 いたれりつくせりだ。友也はもう入浴を済ませたのか、たしかに渉が好むよく知った香りの入浴剤がほのかに匂っていた。
「ありがとうございます、今夜のうちに入ってしまいますね」
 このままあたたかいからだに抱きしめられたまま、友也のにおいでいっぱいのやわらかなベッドにもぐりこんでしまいたい気持ちがないと言えばうそになる。
 けれどその気持ちをこらえて、渉は友也の気遣いににっこりとほほえんだ。
 日々樹渉は、疲れた夜にお風呂をサボって眠ったりしない、天才だからだ。
「そっか」
 渉よりも敏感に渉の疲れを感じ取っていたけれど、友也は無理に引き留めたりせずにただうなずいた。
 友也は、渉に、仮面を被るな、なんてことは言わない。
 仮面の下を見せてくれ、などということも言わない。
 知っているからだ。渉が見せる姿が、顔が、もはや公と私を分ちがたく結びついていることを。
 彼はただ笑っている。渉が、日々樹渉という偶像がどんなふうにできているかなんてどうだってよくて、ただ自分が見たものを信じるから、それをそのまま幸せにしたいのだと。
 そう言って笑う。
 だから、渉も笑う。
 いまはまだ、友也のその想いにどんな顔をすればいいか、わからないから。
 笑って、いまの渉に言える言葉を夫に伝える。
「お風呂から上がったら、甘いホットミルクが飲みたいです」
「いつものやつ? いいよ」
 「いつものやつ」は、眠れない夜、休みの前に夜ふかしをした夜、いつも渉が友也に作ってやるホットミルクだ。
 わざわざミルクパンで温めたりしない代わりに、はちみつをすこしに、ラム酒をすこし。寝酒を少々嗜む渉とちがって度数の強いアルコールを好まない友也に、甘いホットミルクを作ったのが最初だった。
 友也は酒の場でのハイボールなんかや夏の晩酌でのビールは好むけれど、渉が夕食後にちびちびなめるようなウイスキーは苦手なのだ。
 渉の好みには甘すぎるそれを、友也に作ってやったついでに一緒にゆっくりと飲んでいるうちに、渉にとっても「いつもの」味になっていた。
 ちっとも好きな味ではないのに。なぜか、友也に撫でられるとあの味が恋しくなってしまう。
 あの甘ったるくて鼻を抜ける香りに、彼とともに過ごした夜の記憶が思い出されるからだろうか。
 だから恋しくなってしまう。ひとりの夜に、わざわざ夫の使ったあとの寝具を使ってしまうように。
 いま、彼がここにいて、渉と一緒に温まったホットミルクをふうふう冷ましながら味わっていると、何度でも確かめたくなるから。
 ……そんなことを気軽に目の前の年下の配偶者に言えてしまうようになった自分に、渉はいまでもふしぎな心地がする。
「……」
 胸のすそが切ないような、うれしいような感覚で締めつけられる気がして、まだ渉を抱いていてくれるからだをぎゅっと抱きしめ返した。
「友也くんは……」
「うん」
 友也くんは、どうしてこんなにも簡単に、日々樹渉をたったひとりの「私」にしてしまえるんですか?
 あたたかい体温が疲れたからだに染み入るようで、渉はほんとうに聞きたかったことをのみこんで、細い肩にあたまを埋める。
「あしたはおやすみですか?」
「おやすみですよ」
「おやぁ、珍しいですね」
 これには渉もほんとうに珍しい、と思った。ここ最近の友也は上がり調子で、世間での人気や知名度に比例して個人での撮影や番組出演をこなして、ほとんど仕事漬けだったのだ。あっても半日の短いオフを挟みながら、この上昇気流に乗ろうと予定を詰め込んでいた。
「そうだろ! 日本アカデミー賞助演男優賞俳優が」
 でも、最近がんばりすぎだからって。プロデューサーが。
 えへん、と胸を張って、友也が誇らしげに言う。
 渉との結婚が報道された日、「真白友也」という名前が渉ほどにひとびとに知られていなかったこと、だからSNSでも「真白友也」のサジェストに「誰」が入っていることに、わかっていたこととはいえ友也はたいそうショックを受けて、そしてひそかに奮起していたのだ。
 あれから一層、アイドルとしてのユニットでの仕事に加えて芝居に力を入れた友也は、新進気鋭の若手監督の映画に出演したときの演技が評価され、同年代の俳優たちと比べればすこしあたまの飛び抜けた賞まで受賞した。
 いまでは演技派の若手俳優と言えば真白友也、と名前が売れるほどになっている。
 渉がかつて通ったその道を、ちがう足取りで、たしかに友也も追ってきているのだった。
 そんな俳優界の新しい星の休日をひとりじめできる贅沢な身分の渉は、
「では、あしたは中華パーティーにしましょう」
 とあたまに浮かんだまま、とんちきな提案を口に出す。
 友也はべつに、中華料理が好きだというわけではない。むしろ辛すぎる味付けは苦手なほうだ。渉も特別に中華料理が好きだとか、得意だとかいうわけではない。
 単に冷蔵庫に木綿豆腐とひき肉が残っていることをいまなんとなく思い出して、本場の味付けの麻婆豆腐を作りたくなったのだ。ならばどうせなら、各種地域の料理を取り揃えてパーティーにしよう、というのが渉の思考だ。
 痺れる辛さの麻婆豆腐に友也は舌をひりひりさせるかもしれないけれど、文句を言いながらもきっと完食して「まあ、おいしかった」と言ってくれる。
「えー、なんでまた」
 ええ、と言いながらもやっぱり友也は笑って、いいよ、とうなずいた。
「どうせなら一緒に昼まで寝ようよ。それで、昼過ぎに買い物行って、夜にパーティーしよう」
「貴重なお休みをそんなことで使ってしまっていいんですか?」
 渉が言いはじめたことのくせに、気軽にそう言われるとかえっていいのかという気分になる。
「いいんだよ。家族との休日って、そうやって過ごすもんだろ」
 友也はくす、と笑って、そしてぽんぽんと渉の背中を二度、叩いた。
 ……結婚をして、おなじ家で暮らして、寝起きを共にするようになってもう短くはないと言うのに。友也がこういうときなんでもない調子で言う「家族」という言葉に、渉は何度でも驚いてしまう。
 もうずいぶん夜は更けてしまったけれど、手早く入浴を済ませて、ふたりでベッドに入ろう。
 そうしてあしたは友也の言うとおり昼過ぎまでぐっすり眠って、近くの友也いわく「ちょっといい」スーパーに買い物に行って、ふたりでキッチンに並ぶ。
 そうして渉は気がついた。ごくごくあたりまえのように、友也とふたりで、と考えている自分に。
 ーーほんの数年前まで、きっと死ぬまで、自分は愉快にひとり舞台で踊り続けるのだと、思っていたのに。
 友也くん。
 いつのまにか、私に、「ふたりで」を教えてくれた友也くん。
 あなたは宇宙に飛んでいってしまいそうな私のところまで、跳んできてつかまえてくれると言った。
 その日はまだまだ遠いのか、あるいは案外、すぐ近くなのかもしれないけれど。
 私とあなたのふたつの宇宙はもういま、ここで、まじわりはじめているのかもしれませんね。
 幸福に。





おわり

▼ 友也くんと渉の再録本書き下ろしでした(2023.4.11)