あのピンクのうすくてつやつやした貝殻は、いつか楽屋で衣装替えのときに見た部長のつまさきの親指の爪みたいだ。
 口の中でしゃくしゃくと崩れるソーダ味のアイスをのみこんで、友也はまたひとつ貝殻を拾った。今度は白地に濃い紫で細かく線が入ったとげとげした大きいやつだ。
 それを、目の前を踊るように歩く男の背中に思いきり振りかぶって投げつけた。
 このやろう。
 口に出せない悪態を込めて。
 つややかな銀髪を潮風になびかせる男は、まるで背中に目でもついているかのように器用で妙ちくりんな身のこなしで貝殻をひょいと避ける。
 むっとして、つい一歩踏み出した拍子に、やわらかな砂浜に慣れないヒールでずきずきと痛む足が取られた。
 そのまま盛大に転んで、とうとう友也は「あ”ーーーっ」と大きな声でままならなさを叫んだ。右手に持っていたアイスは、いつの間にかあのむかつく部長がひょいと取り上げてしゃくしゃくとかじっている。
「おやぁ、もう投げ出すんですか? 友也くん。あなたの根性って十五分のことを言うんですね」
「もうやってられるか! なんだよ人魚姫の役作りってこんなドレス! 暑いしっ! 足は痛いしっ! しゃべっちゃダメだとか言うし! わけわからん! こんな海辺まで付き合っちゃって俺がバカだった!」
「だからせめてごほうびにアイス買ってあげたじゃないですか」
「そーだよ! だからそのアイス返せ!」
 もう食べちゃってありませーん、と青い着色料で染まった紫色の舌がぺろりとくちびるをなめる。
 まだふたくちか、それよりちょっとかじっただけだったのに。こいつ、大きい口でぜんぶ食べやがった。ちくしょう。長いウィッグが汗で首筋にはりついてうっとおしい。
 友也はレースの手袋に包まれた指先で砂を掘り掘りといじって、ぶつぶつと文句をたれる。北斗先輩はお家の都合だとかで休みだし。こんな変態の部長とふたりっきりで初夏の海辺を歩いたところで、青春の「せ」の字もありゃしない。
「そんなことより、さ、もういちどはじめからやり直しですよ、『控えの人魚姫』さん」
 砂浜に尻もちをついたままの友也をひっぱり起こして、ぱんぱんと数度叩いただけで魔法のように水色のドレスをきれいにしてしまった部長がにんまりと笑う。うっと息を呑んで、友也はげんなりと肩を落とした。
 次の公演の演目である「人魚姫」、新入部員の友也が演じるのは人魚姫のお付きの小さなタイの役だ。北斗が王子さまを演じ、主演である人魚姫を演じるのは、もちろん部長。
 それがなぜ人魚姫の役作りだといって友也が清楚なドレスにハイヒール、日傘まで持たされているのかというと、「友也くんにもそろそろいろいろな役の経験が必要でしょう」だそうだ。
 そんなわけで、ただでさえ砂浜で足元の悪い中、履いたことなどほとんどないヒールに悪戦苦闘しながら、そんなうめき声さえあげるのを禁止されて、かれこれ十五分ほどふたりで海辺をだらだらと歩いている。
 いわく、人魚姫と王子のはじめてのデートの場面だそうだ。はじめのうちは部長がそれらしく――それらしくというか、それはもう完ぺきな王子さまのそぶりで友也をエスコートしては、あれはオオモモノハナガイ、あれはスカシカシパンの死骸、おや、あれはカツオノエボシが打ちあがっていますねぇ、などとわけのわからない浜辺案内をしてくれていたが、そのうちに変態仮面に手を握られ腰を抱かれながら慣れないヒールで歩く苦行に友也が音を上げてしまった。
 それからは、ただただ無言でふたり浜辺をあてどなく歩く時間が続いている。
 友也が人魚姫だというのなら、このわけのわからない男は――日々樹渉は王子さまなどではない。まぎれもなく性悪の魔女だ。
「そこ、ヒールを脱がない」
 とどういう仕組みで動いているのか、だるくてヒールから抜いていた足を、見もしないまま部長の髪先がぱしんと叩く。
「ぶーたれてますねぇ」
「だって……あ、じゃあ、ちょっとくらいお手本見せてくださいよ」
 さっさとこの時間を終わらせたくて適当に放った言葉に、ふと目の前を歩いていた変態仮面が振り返る。
 いや、振り返ったその顔は、「変態仮面」じゃなかった。
 かたちのよい眉を悲しそうにひそめて、うるわしい顔を寂しさで染めている。
 その瞳はあかるく澄んで、海のしずくに潤んでいた。ひたむきさとけなげさ、理知的なまなざし。そこにいるのは、まぎれもなく「人魚姫」だった。
『……もう、やめるんですか?』
 背すじがぞくっと粟立つ。
 彼女はそう言っていた。一言も、吐息すら吐いていないのに。
 かあっとほおが熱くなる心地がした。
 「こんなこと」もできなくてどうするのだと、言われた気がした。
「……なんだよ。まだ十五分だろ。俺の根性が十五分ぽっちじゃないってこと、思い知らせてやるからな」
 むしょうに張りあいたくなって、慣れないヒールで砂浜をずんずんと進みはじめた友也の背中に、フフフ、といつものとんちきな声色の笑い声がはじける。
「おや、友也くん」
 振り返ると、部長が手を伸ばしてなにかをまぶしげに日に翳している。
「当たりですよ」
 部長が寄こして返したアイスの棒には、あたり、の文字がかすれていた。

▼ (2023.5.27)