それから、日々は一日、一日ずつ、巻き戻っていった。
 「巻き戻る」という表現が正しいのかはわからない。これまで経験してきた「くりかえし」ともちがう。
 けれど夜眠り、朝を迎えるたび、目が覚めるとそれはあくる日ではなく、どうしてだか前の一日になっているのだった。まさしく古い映画のビデオテープを一日ずつ巻き戻すように。
 卒業式の前日。その前日。さらにその前日。
 一日一日を混乱しながら、友也はこなした。日々の授業。Ra*bitsのレッスン。北斗との演劇部の部活動。――渉と過ごす時間。
 そのどれもがすぐ近くに記憶のある時間で、友也は記憶にあるとおりにふるまったり、あえて違う行動を取ったりした。
 けれどすべてがなかったことになった。次の――「前の日」になれば。
 渉のメッセージがあったということは、これは友也が最後にくりかえした一年の巻き戻しなのだろう。
 だとすれば、もうじきにあの日が来てしまう。渉に恋を告げた日が。
 そしてその日が終われば、友也はもう、渉の恋人でもなんでもなくなってしまう。
 はじめて手をつないだ日のことを、友也はよく覚えている。
 三月にしては異常なくらい気温が下がった日で、ちらちらと雪すら降り始めている、そんな帰り道だった。
 渉と恋人同士になってからの友也は、どうすればすこしでも渉と一緒に時間をすごしたり、偶然のようななんでもない顔でからだをふれあわせたり、ほんのすこしでも近くにいられないかと、そんなことばかり考えていた。
 だからその日、「今日は冷えますね」と両手を擦り合わせた渉の手を取って、ぎゅっと握りしめたのだった。体温すら自分の望むように変えられるこのひとが、友也と一緒に過ごす時間、こうして「冷えますね」とつめたいままにしておいてくれるてのひらを、暖めたくて。その肌に、すこしでも触れたくて。
 渉は笑って、「友也くんは子ども体温ですね。カイロ替わりにぴったりです」なんて友也をからかっていた。あのひとのことだから、きっとその気になれば手袋だってカイロだってどこからともなく用意できたにちがいないのに。
 そのまま、ふたりが別れるまで、つないだ手に力を込めて、ぎゅっと握り返してくれていた。
 「巻き戻し」のなかで、友也はその日を迎えた。
 依然とおなじように渉の手をとり、そしてあたためた。
 渉はまた、おなじように笑って、友也の手を握り返してくれた。
 そして眠りについて迎えた、「前の日」。
「きょうあすは冷えるそうですよ」とスマートフォンをいじる渉の手は、寒さにかほんのりと紅潮していた。ああ、暖めてやりたい。そう思って友也が伸ばした手は。
 渉にふしぎそうに首をかしげられて、その自由奔放な手と、すれちがうだけだった。
 「巻き戻る」とは、そういうことだ。
 どんなに重ねた時間も、なかったことになってしまう。
 恋人同士として過ごす一日一日を惜しみながら、どうすればこの転落していくように巻き戻ってゆく時間を止めることができるのか途方にくれながら、友也は言葉を、行動を尽くした。
 あんたが大切だよ、と。あんたと一緒にいたい、と。
 それもおなじだ。「前の日」の渉は友也が告げた言葉なんて忘れてしまう――いや、「まだ知らない」ことになってしまう。
 ふたりが恋人同士でいた時間はごく短い。
 その日をどうやって過ごせばいいのか――日が落ち、そして昇ればなかったことになってしまうと知っていて、どんな顔でもういちど渉に「好きです」と告げればいいのか、この混乱のなかで、友也はまだ迷っていた。



 そしてその日が訪れた。
「……キスより先に、私に言うことがあるんじゃないですか?」
 渉はあわせたばかりのくちびるをちょんととがらせて、あの日とおなじ顔で、おなじ声でそんなことを言う。
 これから友也が渉に告げる言葉が、最後の愛の言葉になるかもしれないなんてことも知らずに。
「……部長が好きです。俺と、付き合ってください」
「……はい、私も友也くんのことが、好きです」
 渉は、くっついたひたいのあいだでお互いの前髪がくしゃくしゃになるのも気にせずに笑った。
 『友也くんのことが、好きです』。もう二度と聞くことがない言葉に涙が出そうになって、うつむいた。
 嗚咽をこらえる友也に、渉はとまどったように首をかしげる。
「……友也くん?」
 きっと笑ってうなずけた。こんな日々でなければ。
 友也のことを愛してくれているからこそ友也との未来をあきらめていた渉が、こうしてそっと差し出してくれた素朴な「好きです」の言葉に、こんなにつらくなったりなんてしたくなかった。
 友也は目を閉じる。
 ううん。これが最後だとしても。
 友也は忘れない。渉が「好きです」と、その心の一部を明け渡してくれたことを。こうしてきつく抱きあえた日があったことを。
 渉を心から愛しているということを。
 そうすれば、きっとこのこころはなくならない。この時間はなかったことにはならない。
 友也が覚えているかぎり。
「ねえ、部長、想像してみてください」
 ぽたぽたと流れる涙をぬぐいながら、友也の言葉を待つ渉に笑いかける。
「五十年後……ううん、あんたはしぶとそうだから、七十年後かな。俺たち、もうすっかりおじいちゃんになって、大御所俳優なんて呼ばれるようになって。もしかしたら俺はハゲちゃうかも。うちのじいちゃん、髪薄いし。あんたは……年を取ったところが想像できないなあ。いまのまま百歳ですって言われても信じちゃいそうだもん」
「友也くん?」
「ねえ。このまま十年経っても、五十年経っても、七十年経っても……百年後も……俺はあんたが好きです。ずっと。ずっとこうしてあんたのこと抱きしめていたいよ。どれだけふたりが変わったって」
 だって、もう、十六回もくりかえした。
 何度も何度も殺してやりたいくらいだって思ったあんたのこと、こんなに胸が壊れそうなくらい、好きになった。これまで生きてきた十五年間とおなじだけ、それ以上の時間をあんたと一緒に過ごした。
 これが一生の恋でないなら、きっと恋など、友也にあるはずもないのだ。
 渉は、友也がなにを言いたいのかきっとわけがわからないだろうに、だまったまま友也のこぼれる涙を長い指でぬぐってくれる。
「あんたもそう感じてくれてるって、思っても――信じても、いい?」
 うなずいて、赤くなった友也の目元を撫でてくれる渉のやさしい指先に、友也はにっこり笑ってキスをした。
 渉のつややかな髪に。かたちのいい額に。ほおに。鼻筋に。くちびるに。
 何度も何度もキスをした。さようなら、と、心の内でそうっとつぶやいた。
 さようなら。俺の、ほんのちょっとの恋人。
 恋人としての、さいごのキスだった。
 こんなに恋をした、やっと実った日々樹渉との、恋人としての日々の終わりだった。
 ……この巻き戻しはいつ終わるんだろう?
 もっともっと日々が巻き戻っていけば、もうじきに渉が友也たち演劇部にひとつ心をあずけてくれた「透明の仮面」の騒動がやってくる。そしてそれが終われば、――そのうちに冬が来る。渉の涙を目にした冬が。そして……そしてもっともっと時間が戻って、四月一日になったら? そのあとは?
 恋人同士でなくなったって、ともに過ごしたあの冬の時間がなかったことになったって、渉とともに過ごした時間はまだ長い。けしてこれが一生の別れになるわけではない。けれど……。
 渉の家からの帰り道、泣きはらした目でぼうっと見上げた空は春めいて、しずかな夜の訪れに穏やかに沈んでいた。風は凪いで、日が落ちても空気はあたたかく、もうすぐ芽吹く花たちのにおいたつような気配に満ちている。
 春だった。
 ――いまは、まだ。







 時が巻き戻るのは、案外、何度も何度もおなじ一年をくりかえすことよりも大変だ。
 時間の過ごし方が、一日一日が積みあがっていくこととはまったくちがう。友也は常に携帯のスケジュールやメッセージアプリとにらめっこして、「前」の日になにがあったのか、どんな予定があったのかを確認する生活を送らざるを得なかった。
 わけのわからない現象に見舞われているといっても、生来のまじめな性格が災いして、仕事の予定や友人との約束をすっぽかすなんてダメだと、この期に及んでもそんなことを考えていたのだ。
 だから演劇部の公演の日も、それはそれは緊張した。なにせ、本来なら数か月かけて稽古をした末に迎える本番が、たった一晩を超えてやってくるのだ。
 もう十六度もくりかえして、いやというほど身についたせりふに脚本。それでもきびしい渉の指導なしに舞台に立つのは緊張した。
 失敗したらどうしよう。せりふを度忘れしたら。ほんとうなら稽古で指摘してもらっていたはずのダメな部分を直せずに、そのままお客さんの前に出してしまったら。そんな不安は、「ふつうの一年」と変わらずにあったし、なにより――尊敬する北斗と、そして渉とともに作る舞台だったから。
 友也にとっては、理由も、理屈もわからない、一日一日が巻き戻ってゆく日々だ。もう、すでに「終わった」日々だ。
 けれど周囲の反応を探ってみても、友也とおなじような不思議な現象に巻き込まれている様子の人はみつからない。友也ひとりがなぜかこの巻き戻ってゆく日々に取り残されている――いや、友也自身が、巻き戻っているのか。
 だから渉と北斗、ふたりにとっては、これがきっと最初で最後の公演なのだろう。そう思うと、たとえ友也自身にとって十六度目の経験でも、ないがしろにする気には到底ならなかった。
「きつくありませんね?」
 何度目かの――そうであるはずの、演劇部の公演だった。
 すでにしっかりと準備を整えた渉に、友也が緊張でふるえる手で結んだタイを直してもらって、だまってうなずく。
 うつくしく、節ばった指が確認するようにタイをなぞり、そしてそっと友也のほおにふれた。
 どきん、と心臓が熱くなる。
 渉は、だれにでもめちゃくちゃにスキンシップが多いようでいて、その実ほんとうに心を許した人以外には、逃げ惑う友也をむりくりさらったり不本意な衣装に着替えさせたり校庭に仕掛けた罠で木につるしあげたり――とにかく、そういう「ふざけた」ふれあいしかしないひとだ。
 だからこんなふうな近い距離での、泣き叫ぶ友也によろこんで……というわけでもない静かなふれあいに、どうしたって鼓動は高鳴った。
 恋人だったときの、あの穏やかであたたかかった距離をまだ覚えているから。
 ときは春をさかのぼり、そして冬も糸が巻き戻るように寒さが減っていって、いまは秋。――もうそれが自分には与えられないのだということにも、すっかり慣れた。慣れてしまった。
「いつまで経っても友也くんは緊張しいですねえっ」
「いーっ」
 友也のほおをつまんだ渉が、たてたてよこよこまるかいてちょんちょん♪ と歌いながらほおをぐにぐにと縦に横におもちゃのように伸ばす。
「なにすんだよっ! もうメイクしてるのにっ」
「緊張をほぐすおまじないです♪」
 ちちんぷいぷいのぽいぽいぴ~♪
 シンデレラの魔法使いの呪文を冗談みたいに歌いながら、渉は友也の鼻のあたまをちょん、とつついた。
「……ありがとうございます」
「おや、素直☆」
 一見めちゃくちゃに見えるようなこのひとの言動が、すべてこのひとなりに友也のことを考えてのものだったと知った。
 一度知ってしまえば、全部、まるで手品の種がわかってしまうみたいに、わかった。
 このひとが、ふざけているけれど、おかしいけれど、どんなにやさしいひとなのか。
 思いが通じていなくたって、いまだにこのひとの心の一部をひらいてもらえていなかった「きょう」だって、それは――友也の心は変わらない。
 変わったのは渉の態度だけだ。いや、変わったんじゃない。単にもとに戻っただけだ。これが最初の「正しい」距離感だったのだから。
 そんなことにはもう慣れた。――慣れたはずなのに。
「……部長、あの、手……」
「はい?」
 いつか、友也の緊張でふるえる冷えた手を、渉が握ってくれたことがあった。
 渉の手は友也の両手をすっぽり包みこめるくらい大きくて、しっかりとした厚みがあって、おとなのおとこのひとの手で、あたたかかった。このひとのことだから、ほんのちょっと体温を上げたりしていたのかもしれないけれど。
 友也は、きつく握りしめてくれた渉の手にほんとうにほっとして、このひとのとなりで舞台に立つんだと――それに胸を張れる演者であるのだと、あらためて決意をしたのだった。
 握ってほしい。
 ――でも、もう、そんなことは頼めない。
「……なんでもない」
 ぎゅっと冷えた両手をにぎりしめて、友也はうつむいた。
「がっ……がんばります。俺も、あんたがいる舞台で、となりに立てるように」
 声がふるえる。まるで覇気がない。これが発声練習ならダメ出しどころか基本がなってないと校庭を逆立ちで十週させられるだろう。
 これじゃダメだ、こんなんじゃ、説得力がまるでない。
 焦る友也に、渉は観客も入った舞台裏だというのに、おもしろい冗談でも聞いたみたいにナハハハハ! おおきな声でと笑った。
「……たしかにこれから同じ舞台には立ちますがっ? 友也くんが私のとなりに来れる日なんて来ますかねぇ~? 高みへ昇ろうとして転落していくまえに、あきらめたほうが身のためですよ」
 はっと息をのむ。
 そんなこと。
 そんなこと、渉はこの一年で、言っただろうか。
 このひととのこころの距離は、こんなにも、こんなにも遠いものだったのだろうか。







 そうしてとうとう、はじめて渉と言葉を交わした日がやってきた。
 夢ノ咲学院の入学式。
入部届を持って、ドキドキと不安と、たくさんの希望で胸をいっぱいにして演劇部の扉を叩いた日。
 このひとと過ごした時間は長いんだから、なんて考えていたのがうそのようだ。一日、また一日と巻き戻る月日は光のように過ぎていって、きょうのこの日が終われば、もう渉とは言葉を交わすことがないのだと――そんな日が来たのだと、まだ信じられずにいる。
 こんなことなら、こんなことなら……もっと一日一日を、渉と過ごす時間を、大切にすればよかった。
 覚悟を込めて、これ以上なく大切に扱ってきたつもりなのに、『最後』が来ると否応なしにそう後悔してしまう。
 だって、ほんとうは、覚悟なんかできていないのだ。
 渉のいない世界で生きる覚悟など。
 何度となくくりかえした一年が、こんなふうな奇妙で苦しい終わりを迎えることになるなんて。
「みなっさん! ようこそ我が王国、演劇部へ……☆ 私はここの部長を務めております、あなたの日々樹渉です!」
 そんなことは知りもしない渉が、胸を期待でふくらませた一年生でいっぱいの部室に窓の外から飛び込んで来た。
 日々樹渉の奇行を「はじめて」体験する周囲の一年生たちは、うわあっと叫んだりパイプ椅子から腰を落としたり、各々が思い思いにびっくりするのに忙しそうだ。
 いままでは友也もそうだった。なぜだかくりかえすたび、渉の登場パターンはちがっていて、天井の仕掛けから飛び出したり、クローゼットのなかから鳩たちと一緒に飛び出てきたり、さまざまな方法で一年生たちを驚かせようとするのだ。
 一年が終わるころには、自分自身も、そして周囲も「日々樹渉の奇行」にすっかり慣れてしまった――いや、いまだに声をあげて驚いてしまうことも少なくないのだが――けれど。まだ日々樹渉の脅威を知らない同級生たちの新鮮な悲鳴に、友也は、こんなときだというのにくすっと苦笑いをこぼした。
 いっときはうっとおしく思った、このひとのこんなにぎやかしも、もう見られなくなる。そんなこれからへの不安に対する、現実逃避だったのかもしれない。
「おやおやぁ~? 今年の一年生はいやに肝の座った子がいるようですね?」
「え」
 友也の一見余裕があるとも思える姿を目ざとく見とがめた渉が、びしりと長い指を突きつけてくる。
「この私の登場に苦笑いをしてみせた子ははじめてですよっ! ではそこのあなた! 自己紹介をどうぞ!」
 自己紹介のトップを任せられることには慣れていたが、こんなふうに指名されたのははじめてだ。
 友也は視線を右に左にうろうろとさまよわせ、長いくりかえしのなかで決まりきった文句を口にした。
「あ……えっと、真白友也です。去年、演劇部の舞台を見て――日々樹先輩の演技にあこがれて、夢ノ咲に入学しました」
 そしてすこし迷って、
「あなたみたいに、なりたくて……ふつうの自分を、変えたくて、ここに来ました」
 そう付け足した。うつむいた視線の先で握りしめた両手がふるえている。
 何度も、そう、両手の指の数では足りないほど渉に告げたこの言葉も、明日――「前日」になれば、渉は忘れてしまうのだろう。
 そう思うと、自然と声色は沈んだ。渉と言葉を交わせるせっかくの日なのに。もっとちゃんと、あんたがあこがれだと、人生の目標なんだと、伝えたいのに。
 それすらなかったことになるのなら、いま友也が言葉を交わす意味はあるのだろうかと、そんなことを考えてしまった。
「あなたみたいな、ちょっと人よりかわいいだけしか取り柄がない、ふつうの子がねぇ。私みたいに……」
 どきん、と心臓が鳴る。つぎに渉が取るはずの行動に、からだが自然と身構える。
「叶わぬ夢を追い求める、それもまたひとつのロマンですねっ♪ まあ、無理な話でしょうが」
「え……」
 一瞬、渉がなにを言ったのかわからなくて、友也はぼうぜんとした。
 いつもなら。
 これまでだったら。
 「あなたみたいになりたい」と言う友也に渉はたいそう喜んで、飛びついて――文字通り友也に飛んで抱きついてくるのだ。
 だから、これが渉にふれられる最後のいっときだと、そう思っていたのに――かすかな、愚かな期待に友也の心臓はどきどきと早まっていたというのに。
「では次のあなた!」
「は、はい!」
 渉はもう友也のことなど眼中にない素振りで、となりの同級生へと視線を映している。
 指された彼は傍目にもどぎまぎした様子で、けれどまっすぐに渉の目を見てしどろもどろに自己紹介をしている。
「あ……」
 はっと気がついた。
 もう、目も合わせられなかった。
 自分の不安から逃げることにせいいっぱいで。
 友也だ。
 何度も何度も別れを告げられて。それがたまらなく苦しくて。どうにかして、ともにある未来を信じてほしくて。
 やっと渉が、友也との未来を信じてくれた一年だったはずなのに。日々がさかのぼるたびに、すこしずつ離れてゆく距離が怖かった。このまま時間が戻りつづければ、渉が友也を望んでくれたあの未来ですらなかったことになるんじゃないかと――。
 そんなふうに、友也が不安がったから。不安から渉への態度を変えたから、渉の返事も変わったのだ。
 余計に、ふたりの距離は遠のいたのだ。
 ――だけど、いまさらそんなことに気づいたって、もう遅い。
 渉とともにあれる最後の日は終わってしまった。
 これから迎えるのは、さかのぼるのは、いまだ知らない渉へのあこがれに胸を焦がしていただけの日々だ。
 ――もう、この踊るような声も。突拍子な態度も。こんなに近くで感じることはできない。
 最後に、名前を呼んでもらうこともできなかった。
 最後に、せめて彼の声が聴きたかった――「友也くん」と、そう呼ぶ声を。
 他の同級生の自己紹介の声など、渉がそれらに茶々を入れる声すらもう耳に入らず、友也はぼうぜんと窓の外を眺めていた。
 早くも散りかけている、ポップコーンみたいなあわい桃色の花。
 春が巻き戻り、冬にさかのぼって、そうして時間が戻ってゆくことに怯えていたはずのこの一年。もう、季節は一巡して、「前」の春になっていた。
 友也の最後かもしれない一年間は、ただ、渉への喪失感に怯えているうちに過ぎ去ってしまった。







 わかっていた。
 わかってしまった。
 この巻き戻る日々のなかで。
 これは、渉がしあわせな結末を迎えたからだ。
 あの卒業式の日、あれ以上にしあわせな渉は存在しない。
 だから、物語の分岐は閉じた。だから、くりかえしは終わる。
 あとはテープが巻き戻されるのを待つだけだ。