《八回目 四月》


 一生、高校一年生のまま、このままここに閉じ込められるなんてまっぴらだ。
 いったい何度目なのかそろそろ数えるのを止めはじめた四月一日の朝。ベッドの上にしゃっきりと起き上がって、ねぐせでくしゃくしゃになったあたまのまま、友也は決意した。
 おとなになってからのほうが、楽しいことがたくさんある――父さんはそう言ってた。友也はハタチになったらお酒の味だって知ってみたいし、大学に進んでキャンパスライフってやつもやってみたい。ゆくゆくはかわいい彼女と結婚して――いや、せっかくできたはじめての彼女とはうまくいかなかったのだが――子どもを持って、犬か猫を飼って一軒家で家族で暮らすのだ。
 そのためには、永遠に十五歳のままでいるわけにはいかない。
 演劇部から徹底的に逃げようと、果ては夢ノ咲学院から逃げ出したって、このくりかえしは終わらなかった。
 じゃあ、これは、なんのために。
 いったいだれのためのくりかえしなんだ?
 そう考えたとき、ふと思い出したのだ。最初に「くりかえしている」と気づいたときのことを。
 あれは、そう、たしか一年生も終わりの冬のことだった。友也はあの変態仮面にいつものように拉致されて、ふたりっきりでサファリパークに行くなんてデートみたいな日を過ごさせられた。そしてめちゃくちゃなあの男に猛獣のなかへ生身でほうり出されて――その瞬間、気づいたのだ。
 もしかすると、このくりかえしを終えるためのヒントはあの瞬間に隠れているのかもしれない。
 だったらいつまでも日々樹渉から逃げ回っているわけにはいかない。立ち向かわなければ。
 立ち向かって、勝ち取るのだ。友也のこれからの未来を。







「みなっさん! ようこそ我が王国、演劇部へ……☆ 私はここの部長を務めております、あなたの日々樹渉です! ああっなんというすばらしいめぐりあわせでしょう! みなさんの執念と努力が続くかぎり、我が部はあなたを歓迎しますよ……♪」
 いきなり天井が割れてさかさまに飛び出てきた長髪長身のとんでもない男の存在に、演劇部部室に集まった入部希望の一年生たちは、目を白黒させて固まってしまった。
 かわいそうに。無理もない。ここがまるで魔窟のような場所だとも知らず、無防備にやってきたすなおなやつばかりなのだ。
 ここにやってきた一年生たちは皆、入学式のあと講堂で行われた簡単な部活紹介で、日々樹渉という男の魔力に魅入られてしまった者たちだ。「ロミオとジュリエット」のいちばん有名な一幕を、恋に焦がれる情熱的で悲痛な男、可憐できよらかな熱に浮かされた少女、ひとり二役で見事に演じきってみせた才能。そのすさまじさを前にすっかり参ってしまって、他の選択肢なんてこれっぽっちも目に入らないまま、とにかく入部届に名前を書いてここへやって来たのだ。
 友也にも、いや、友也だからこそわかる。ステージの上のあの「日々樹渉」を浴びてしまうと、ひとはみんな彼に夢中になってしまう。彼のことしか見えなくなるのだ。
その存在感。この世のものとは思えないバランスよく鍛えられた物語の英雄のような体躯。それでいてうるわしい女性の役ですらしっくりと、それそのものにしか見えないほどにこなしてしまう技術力。
そういうもののすばらしさを目の当たりにして、興奮に浮かされていてもたってもいられなくなるのだ。……その本性が、いったいどんなものかも知らずに。
 案の定、あの部活紹介でステージに立っていた類まれな才能を持つ演者とは思えない登場の仕方とトンチキな声色に、ところ狭しと並べられたパイプ椅子とは裏腹に、ついさっきまで静かな期待と緊張に浮ついていた部室の空気は冷え切っている。一年生たちがさわさわと不安そうにささやきあうのを聞きながら、わかる、わかるぞっ、と友也は内心でふかくふかくうなずいた。
 最初の俺もそうだった。こいつの本性が、どんな荒唐無稽な変態なのかも知らずに純粋な憧れでここに足を踏み入れてしまったんだ。
 おまけに、一年生たちの受付をしていた北斗が、想定以上の大人数がやってきたにも関わらず顔色ひとつ変えずに淡々と案内をしてくれる親切でかっこいいひとだったから、「このひとも先輩なのか」と日々樹渉の登場を前によりいっそう期待が高まっていたのもこのなんとも言えない空気の一因だろう。あまりに落差が激しすぎる。
 ああでも! それにしても、(友也にとっては)ひさしぶりの北斗先輩! やっぱりなんてかっこよくて頼れる素敵な先輩なんだろう……♪ きゃあ~っ! と駆けよっていきたいところを、友也はぐっとこらえた。友也にとっては何度くりかえしたって大好きな北斗先輩♡でも、北斗にとって友也はまだ自己紹介もしていない見知らぬ新一年生だ。
「ああ、彼は二年の氷鷹北斗くん。部員は私と彼だけです。まあ私たちのことはいいでしょう。あなたたちのことを教えてください! ではそこのあなたから!」
 渉に指さされ、友也はごくっと唾をのみこんで立ちあがった。こうして受付初日に演劇部に入部届を出しに来ると、なぜかいつも友也がいちばんに自己紹介を指名されるのだ。わかってはいても、渉のおおぶりな仕草とどこまでも通る声で指されると、ついどきっとしてしまう。
「えっと……真白友也です。演劇に興味があって、来ました。よろしくお願いします」
 いちばん最初はなんて言ったんだっけ。『あなたみたいになりたいんです』なんて言ったんだったかな。それを聞いて、なぜか渉は執拗に友也をつけまわすようになったような気がする。
 けれどもう友也は知っている。この男がどんなにあたまがおかしい変態なのか。友也が演劇部でなにかを成し遂げることがこのくりかえしを解く鍵なのだとしても、できればなるべくめちゃくちゃじゃない一年を過ごしたいに決まっている。とりわけめちゃくちゃだったときと、同じ轍を踏んじゃ意味がない。
 友也のごくあたりさわりのない自己紹介に、渉は心底つまらなさそうにため息をついた。
「なんです? 容姿だけでなく言うこともごくごく平凡なんですねぇ? それではお名前も覚える気がしませんよ、真っ白トモヤくん」
「真白です!」
 混ぜっかえすような渉を、この……体感した時間では一年に留まらない付き合いでなじんだぶっきらぼうで失礼な態度で、じろっとにらみつける。よくやるなあ……と周囲の一年生たちがざわっとしたのがわかった。内心で首を振る。べつに、このひとはこういうのでは機嫌をそこねたりはしないんだよな。
「では真白くん、あなたが演劇に興味を持ったきっかけは?」
 どきっとした。今度こそほんとうに心の底からの「どきっ」だった。
「えっ。えっと……その、中学のときに、すごいひとの舞台を見て、それで……」
「ふうん」
 言葉をにごす。渉はぼそぼそとしゃべる友也をじっと見ている。
 ――実を言うと、友也はいままでに何度か、あこがれの日々樹渉さま宛に記名でファンレターを送ったことがあった。少ないおこづかいをやりくりして、ちょっと高めの、このひとに似合う銀の箔押しのレターセットを買ったりして。中学生男子の汚い文字だけれど、なるべくていねいに一文字一文字を書いた。どんなにあなたの演技がすばらしかったか。どんなに特別だと感じたのか。ふつうじゃないあなたの、あなたみたいにいつかなりたいのだと。
 返事は一度も来なかったし、きっと山ほど来ているファンレターのうちの一通など覚えていないだろうが、いつか拙いファンレターを送って寄こした相手が自分だとは、ぜったいに知られたくなかった。
 はっきり言って日々樹渉の演技以外の本性を知ったいまの友也にとっては忘れたくてベッドの中でのたうちまわるような黒歴史にほかならないし、張本人を目の前にしてあの熱烈なファンレターの文面と自分がひとつにつながるのは――ただただはずかしかった。
 じっと内心まで見透かすようなすきとおった目にみつめられると、そんなあれこれがすべてばれてしまいそうで――けれど目をそらすのも負けたようで癪だったから、友也はそのすみれ色の目をむっとにらみ返した。
「――さて、あなたを夢中にさせたその魔法の効果は、いったいいつまで保ちますかねぇ」
 ひとごとみたいな――実際ほんとうのことなど知らないこのひとにとってはひとごとだろうが――声色で、なんの期待もしていないふうに言い放って、渉は友也から興味を失ったように視線を逸らした。
 はいっ、次の方! と指名されたとなりの一年生が縮み上がっているのを横目に、友也はやっと息ができる心地になって、目を伏せる。
 ――どうしてだか、胸のところがちくっと痛んだ気がした。







 くりかえしているといっても、友也にとって一年は一年だ。
 なんでもないふつうの公立高校に一年通ったあとの友也にとって、一年ぶりにアイドルとして立つステージのまばゆさは、やはりなにものにも代えがたくいとおしいものだった。
 やっぱり、夢ノ咲に入ってよかった。
 音楽にあわせてはじけるリズム。スポットライトの熱。お客さんの歓声、笑顔、光る花畑みたいなペンライトの海。
 自分がしあわせになって、そしてその笑顔でお客さんもしあわせになってくれる。そんなお客さんたちに、俺たちもしあわせをもらっている。
 アイドルになってよかった。アイドルになれてよかった。夢ノ咲をあきらめないでよかった。
 それをより実感したのは、ミステリーステージだった。
 このくりかえしに気づいたきっかけの、サファリパークの事件。過労で倒れたからだをおしてなお立ったステージは、友也にたくさんの幸福と、気づきと、勇気をくれた。
 ――アイドルとしてだけじゃなく。
 突き放すような言葉が苦しくて、だけど、それがアイドルとして、ひとりのひととしての友也を思った言葉なのだと気がついてから、あのひとのすがたを探した客席。
 たまたま居残った講堂で見つけた、あのひとのこと。
 うそかほんとうかわからないという――けれど、友也にはどうしても、ちいさな男の子が抱きしめてほしくて涙をぬぐってほしくて手を伸ばしているように聞こえた、昔話。
 いままで閉じていたまぶたがひらいたようだった。ううん。いままでだって目の前にありながら見えていなかったこのひとの人生を、見つけた気がした。ひとりの十七歳の男の子というすがたに、色がついた気がした。
 最初に友也の心をとらえて離さなかったのは、このひとの才能だった。
 ふつうじゃないって思った。どうがんばったってふつうでしかいられない自分だから、あんなふうに、このひとみたいになりたいって思った。そのためにその背中を追いかけていた。
 けれど、いまは。
 となりに居たいと思う。このひとみたいに――日々樹渉みたいになりたいんじゃなくて。真白友也として。ひとりの共演者として。
 渉が立つ舞台は、友也にとってまだまだ遥か遠くて、うんと見上げたって背伸びしても飛び跳ねても指先だって届かなくて――だけどいつかは、このひとのとなりに立ちたい。
 そのためになら、なんだって、どんな努力だってできる。
 このくりかえしは、この気持ちに気がつくためのくりかえしだったのかもしれない。なんとなく、そんな気がした。



 その後、三月もなかばの返礼祭の時期。渉が突然宣言した演劇部の廃部騒動があり――いままで友也が演劇部に入った一年では、渉はいつも卒業式の日に廃部を決定事項として言い出していた――そのなんやかんやを北斗とふたりで乗り越えて。
 透明の仮面を残して、渉は卒業していった。
 がらんとした部室に心の奥にすこしつめたい風が吹いたような心地がして。
 眠りについて、目が覚めた次の日、やはりそこは高校一年生の四月一日だった。





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